バレンタインとか

notion の iPad アプリでページを全文選択するとコピーできないというバグがあり、ブログを書く気が失せていた。

昨日ラジオを聴いていたら、バレンタインの話をしていた。男の人はたとえ義理でも貰えたら嬉しいもので云々みたいな話をしており、きもいなーって思った。まあこれは多分スポンサーへの配慮とかで、会社で女性従業員から男性従業員へとチョコを贈るというこれまたクソきもい風習が廃れないように的なやつなのだろう。あの会社でチョコのやつはマジで 1mm も嬉しくないしキモいだけなので絶滅してほしい。

というか、バレンタインにチョコをもらえないことを悲しむみたいなやつはキモいなってずっと思っていた。それこそ中学生くらいから。それってつまりホモソーシャルの内面化なのではないだろうか、いや知らんけど。雄としての価値のをチョコレートという形で表すホモソ的なものと、とにかくチョコが売りたい資本主義的なものの悪魔合体で、バレンタインというやつは醜悪なイベントになってしまっている。そしてそれを内面化して悲しむとかいう輩までいて、本当に地獄って感じだ。全てはクソだなと思いながらブラウニーを焼いたが美味かった。

違国日記の最新刊で男らしさから降りるとか、ホモソーシャル的なものの話をしていたが、私もまたそういうものにずっと違和感と気持ち悪さを感じながら生きてきたし、生きているなと思う。ああいうのは、私は全て部族的連帯感を演出するための儀式ないしは仕草だと思っていて、例えばクラスの誰それが可愛いとかの話題は私はまっっったく興味ないんだけど、部族的連帯感のために適当な無難な人で話を合わせたりする。実の所、その会話に参加している全ての人が興味ないけど、中身のない仕草だけを実行しているんじゃないかとすら思う。

しかしそういった仕草による価値観の消極的な共有というのがホモソ的なものを強化している気がする、拒絶していきたい。そもそも私たちはなぜ何かを共有することに重きを置くのか。あなたと私は同じであるということを常に発信し続けないと敵にされてしまうような社会や関係性をなぜ作ってしまうのだろうか

。あなたと私は違う人間なのだということだけを紐帯とすることはできないのだろうか。カミュが、世界は理解できないという不条理性だけを世界との絆としたように。