物欲が負ける

なんだか秋めいてきて、過ごしやすくなったのでちょっと外で肉でも焼いて食いたいなと思い、シングルバーナーとあとここ数年流行っているアウトドア鉄板みたいなやつをひとしきり調べていたのだが、結局カセットコンロとフライパンを持っていけばいいじゃんとなり、何も買わなかった。

調べ物をしているとき、私の心の中では「外で肉を食いたい」という欲求よりも「何か新しいギアが欲しい」という欲求の方が優っていた。いわば物欲を実現させるための触媒として食欲があった。そういうことは良くある、実際のところ多くの物事というのは物欲の触媒なのだ。

しかしいろいろ調べているうちに物欲は萎えてしまい、必要性や実用性を持ち出して、今持ってるものでいいやとなってしまった。物欲が負けてしまった。これはこれで悲しい気がする。

あともうちょっといい音で音楽が聴きたいなと思ってDAPやらポタアンやらを色々調べていたのだが、これはさすがに今手持ちのもので代用できない。カカクコムの売れ筋のポタアンが1万ちょっとで、なるほどその価格だと1ヶ月は悩むなとなり保留となった。

とりあえず今週末、天気が良かったら外で肉でも焼こうと思う。

シンプルに前向きになりたい

もうかなり長いことネガティブ人間として生きているので、ネガティブであることが当たり前になってしまうのだが、定期的に、私の気質はちょっと普通ではないのではないか、何か、こう、改善というか治療をしたほうがいいのではという気分になる。正気。

他人がどれくらいネガティブなのか、ポジティブなのかというのはあんまりそういう話をしないので把握できない。みんな意外と自分のことしか知らない。高度情報社会なのに。先日ネットの質問箱か何かで、自分は親から体罰を受けて育ったので、自分の子供にどれくらい体罰をしていいかわからん、3割くらいかな? という驚くべき質問があり、回答者は、いや普通は子供に手を上げません、体罰0割ですって答えていたのだけど、こんな感じで自分の経験の外のことは案外わからない。家庭内とか精神のことは殊更に。

私なりに自分の気質を分析した結果、私はとても不安になりやすい性格で、些細なこと、人からしたらどうでもいいことにから不安な想像をしてしまう。その不安は、私自身明確に認識できるものもあれば、認識できずになんだかモヤモヤとしたストレスの塊みたいに私の中に存在し続けるものもある。

例えば前者の認識可能なものとしては締め切りに間に合わないとかがある。これはかなりわかりやすいし、締切までの時間と進捗のバランスでストレスが増えたり減ったりする。後者の認識できないものとしては、例えば私の些細な言葉が相手に悪い印象を与えてしまったのでは、とかがある。私は普通に日常生活を送っているにもかかわらずモヤモヤと恒常的なストレスを抱えることがあり、冷静になって振り返ると、あの時あの人に言ったあの言葉がずっと引っかかっていたのだなと思い出すことがある。

とにかく生きているとそういった不安が無数に現れて体が重くなる。些細な行動でも複数の不安を打ち払って実施しなければならなくなる。無数の不安はストレスであり、私をネガティブにさせる、何もしないのが一番じゃんという気持ちになる。この不安がなければもっとパフォーマンスが出るのになと思うことはよくある。

そこまでわかっていて、じゃあどうしろというと、結局あれか、認知行動療法とかスキーマ療法とかを地道に頑張っていくしかないのか? となる。不安が発生したときにそれを記録することは手間も時間も精神力も必要だがなるほど確かに効果があるなと思う。

一応私なりに独学で10年くらいは頑張ってみたのだが、それゆえに10年前よりはかなりマシになったが、それでもなおつらいというのが本音である。独りでやっていくのはもう厳しいという気がする、カウンセリングとか受けるのか? そもそもカウンセリングってなんだ? 海外のドラマを見ているとなんか患者が安楽椅子みたいのにゆったり座ってカウンセリング受けるシーンとかよくある。あと自助グループで、みんなが円になって座って順番の自分の経験を言うやつもある。ああいうのって日本ではどうなんだろう。

あと近況について書くと、やはり転職したのがメンタルにきている。環境が変わるのはきつい。何がよくて何がだめなのか指標が完全にリセットされるから。何が良くて何がダメなのかという基準はマジで組織によってまちまちで、組織が変わるたびにそれを学習し直さなきゃいけないし、しかもそれはその組織の構成員にはなんとなくカルチャーとして共有されているものなので明文化されておらず、つらい。だから今は、まあ普通につらい時期なんだよな。

毎日書きたい

毎日、何かを、書きたい。

なぜかというと気を抜くと労働と生活しかしないからだ。あとTwitter。いやだからここにブログを加えたからといって何にもならない気もしないでもないが、それでも何がしか考えているということを残した方がいい気がしないでもない。いやどうでもいいか。

最近読んでいる本の話でもするか。「How to Read Marx's Capital」という英語の本を読んでいるが、英語の本は読み切った試しがない。英語の本を読むという体験は日本語が不自由だった幼少期の頃を思い出す。国語の教科書のわからない単語を辞書で調べてきましょうという宿題がよくあり、大変だった。私も小さい頃は本を読むのが難しかった気がする。少し背伸びして難しい本を読むと比喩表現とかが訳分からなかったという記憶がある。小学3年生くらいの頃だろうか。

すっかり忘れていたそういう不自由さのようなものを思い出す。本を読むのが苦手という人は、私が英文を読むときに感じる抵抗や苦痛と似たようなものを、日本語の文にも感じているのかもしれない。そう考えると多くの人に読んでもらうということがとても難しいなと思う。

いつの間にか私は日本語の本を読むことは苦痛ではなくなったのだが、英語の本もいつかそうなるのだろうか。

電子書籍の普及により洋書が書いやすくなったのはよかった。電子書籍がなかったら英語の本なんてどこで変えばいいか分からないし、向こうで発売してからこっちまでくるのにかなりの時間がかかっただろう。それが今や同時発売である。すごい。だから頑張っていきましょう。夜寝る前に1ページくらいずつ読んでいるので順当に進めば1年半くらいで読み終わるはずだ。長いな。つらい。

感情に囚われることと客観視すること

感情は厄介であり、強い感情が発生するとなんというか、振り回される。

私にとって最も厄介な感情は不安だ。人によっては怒りなのかもしれない。私はあまり怒らない。大体の不安は、冷静になって整理してみると極端で非現実的で馬鹿らしいものなのだが、それが発生した時は理性が機能しなくて、正常な判断や客観視はできなくなる。とても厄介だ。

私なりに、不安とどうにかうまくやっていこうという試みを5年くらい続けていて、幾らかは成果が出ていて、昔よりはまだマシになっているけど今でもやはり不安に振り回されながら毎日をやっていっている。不安すぎて生きるのがめんどくさいということは大体毎日考えている。

当たり前だが、自分の人生は主観視点で生きている。構造的に原理的に人体的に、主観視点以外の視点を得ることはできないのだが、物語は例外だ。物語を読むとき私の主観は消えて、客観でその世界を見ることができる。なんかかっこいいこと書こうかと思ったけど有り体に言うと自分の不安は客観視するのが難しいのでめちゃ深刻だけど、他人の不安はなんか笑える見たいな、そういう感じのことが言いたい。自分の不安でめちゃ深刻になっている時に他人の不安を笑えるなって思えると自分の不安も少し軽くなる気がする。

不安だけではなく人生全体や世界全体がそうで、私は主観で生きているが故にそれらを深刻に受け止めすぎるので、物語を読むことでその深刻さを和らげているということがある。割と明確にそういう目的を持って物語を読んだりもするし、そういう用の漫画をKindleで持ち歩いていつでも読めるようにするのは危機対応的にも重要な気がする。そういえば高校生のころ常にヘッセのデミアンを持ち歩いていた。

日記もブログも、割とそういう気持ちで書いている側面もなきにしもあらずという感じだ。冷静になって、そこまでして生きなきゃならんのかめちゃだるいなって気持ちになってきた。

ハンバーグを捏ねる

ハンバーグを作るときは、多めに作って形成した状態で冷凍しておくと色々と便利なのでよくやる。しかし肉を捏ねながら、これならばすでに形成してあるハンバーグのたねを買ってくる方がいいのではないかと思ってしまう。それは単純にコストの問題で、ひき肉から作った方が、出来合いのハンバーグを買ってくるよりも安い、もっと言えばレストランでハンバーグを食うよりも安い。だから結局私は、金がないから自分でハンバーグを捏ねているとも言える。

日本では自炊というものになんというか、信仰というか、ちゃんと料理を作るべきというか、ちゃんと自分で料理を作ること、家庭料理というのは良いもので大切なものだというような価値観があるように思う。私もやはりそのような価値観のもとで自分で料理を作っているという側面もある。まあ料理は好きだしな。

以前にインターネット読んだ文章で、ある高収入夫婦の夫が家事や育児を積極的にやっていたら、妻から、あなたはそんなことをするべき人ではないしそういうことはヘルパーに頼めばいい的なことを言われ、価値観のすれ違いで結局離婚したというのを読んだことがある。なるほどという感じがある。

すごい単純化すると、自分の時給が家事ヘルパーさんへの時間あたりの報酬を上回る場合、ヘルパーさんに頼むのが合理的ということになる。

家事は虚しい。洗い物をしてもまた食器はすぐに汚れるし、掃除をしてもすぐに部屋は汚れる。生きるため生活するためにどうしても必要な作業を私たちは家事と呼んでいる。なぜ生きねばならぬのかという抽象的で実存的な問いは、家事によって具体的な現象となる。家事とは生存の不条理さの凝縮だ。

賃金労働もまた生存のために必要なことなのだが、こちらは歴史的経緯、男尊女卑や家父長制、資本家による狡猾な搾取戦略などの様々な複雑な要素によって社会的地位や「やりがい」などが付与されている。というか我々の社会が労働をそういうふうに仕立て上げてきた。その結果、ごく一部の賃金労働においては生存の不条理さ、虚しさが隠蔽されている。つまり一部の労働においては家事において見られるような、生存のためだけの作業に自分の肉体が消費されていくような虚しさを感じにくい。

だから家事は生存の不条理的虚無に直面しており、賃金労働はそれからある程度距離をとっている。そして丁寧な生活というのは家事労働に楽しみややりがいを見出すことにより生存の不条理的虚無を和らげようという試みなのではないかと思う。それはつまり資本主義が賃金労働で達成したことを家事労働でもなぞろうとしている。

だから、賃金労働で高い賃金をもらって、出来合いのハンバーグを買うこと、家事をアウトソースすることは生存の不条理的虚無を自分から遠ざけることになる。それは現代では「成功」とみなされる。それができるのは一部の人だけだ。

家事労働も賃金労働も、生存のために必要なことという意味でどちらも等しく労働である。しかしそれらが全く別のものとして扱われているのが実情であり、それは正しいのだろうか。資本主義的労働は生存の不条理を和らげることに成功したのだろうか。もちろん資本主義はそのようなことを目的とはしないが、搾取の加速の副産物としてそのようなことが達成されたかどうか。家事労働が資本主義的労働をモデルとすることは良いことなのだろうか。

水ボトルとボールペン

シンエヴァ2回目を見たので感想でも簡単に書こうかと思ったら色々な気持ちが発生してしまい、ちょっと保留にした。
手帳用のボールペンを探していて、色々と試しているのだが、いかんせん100円で売っている sarasa が高性能すぎて、これ以上のものがない。100円ボールペンの性能が上がりすぎた結果、ちょっとお高い金属軸ボールペンが性能で劣ってしまうというよくわからない状況が日本のボールペン事情だと思う。あとプラスチックの方が金属よりも加工精度が高いのか、ブレも少ないんだよな。
無印の水ボトルを買った。去年くらいに発売されて気になってはいたが、無印で水ボトルかってサーバーから水を汲んでいるというのはかなりスノビッシュだなとかそういうことが気になって買えなかった。しかし私もいい歳なので人目を気にせず好きなことをしようと思って買った、我ながらめんどくせえな。買ってみたらかなり良くて、薄いのでサコッシュに入るし、なんかしっかりした素材なので安心感があるし、あと常に水を持ってこまめに飲むと体調が良いということに気づいた。

神を感じる

漫画を読んでいるとたまに、どうしようもなく羨ましく感じることがある。うまく言えないんだけど、この人は“語られている“なという感じだ。創作物には必ず創作者がいて、キャラクターたちは創作者の意図のもとで物語の中に配置されている。キャラクターが悲劇的な状況でも、彼は意味と意図に満ちている。そして何よりも読者である私がそれを観ている。彼は意味と意図によって作られ、それをちゃんと観測されている、その事実がとてつもなく羨ましい。
現実の生について考えてみると、私たちは偶然に生まれてきて偶然に生きて偶然に死ぬ。全ては偶然であり世界との必然的な関係性は存在しないと私たちはすでに知っている。いや100年200年前の人たちなら本気で神を信じて必然性の中で生きてたのかもしれないけど現代ではそれは無理っしょ。それでも私たちは儀式とか慣習とかで頑張って必然性を演出して誤魔化し誤魔化し生きてる。冠婚葬祭は良い例だ。
だから、物語のキャラクターが羨ましい。
全ての漫画のキャラクターの対して、そういった複雑な羨望を持つ訳ではない。優れた物語に対してだけだ。これもうまくは説明できないのだが、日常的で偶然的でありながら、全てが美しく配置されているような物語、という感じがする。そもそも下手な漫画というのは意味のない設定やコマが多い。つまらない漫画は、粗雑で無意味な私と同じ世界に生きている作者が背後に見えてしまい、失望する。意味がある、とは無意味と偶然性の排除であり、偶然性の世界に生きる私たちがそれを作るためには鍛錬と洗練が必要なのだろうと思う。それは並々足らぬ努力なのだろう。私は創作者ではないからわからないが。
私が特殊な羨望を感じる時、漫画を中心にして神と観測者の関係を感じ取るとき、もしかすると私の生にも神と観測者がいるのではないだろうかという可能性を感じる。私が私の主観視点で毎日クソみたいな生活を送っていたのが、こう、視点をぐいと引き上げられて俯瞰で自分の生活を眺めるような、そういう感じが発生する。私が私自身の生を観測し、語ることによってそれを救うことができるんじゃないか、そういう可能性を感じる。
可能性は絶望の特効薬である。実際に自分語りで自分を救うのか、救われた人がいるかどうかは問題ではない。というか、自分語りで自分を救おうとする行為の果てに待ち受けるのは悲惨な自家撞着だろう。だから倦怠の生活をほんの少し目覚めさせるものとして可能性で十分なのだ。それがなんの行動も起こさないとしても。そしてこの不思議な感覚を得るために私は漫画を読んでいる気がする。