自己強化的

いろいろあってまた転職活動をしている。新卒の就活は死ぬほどつらかったが、それに比べれば中途の転職活動は100倍くらい楽だ。

転職活動では自分の経歴や自己PRとかを書く必要があるのだが、この書くという行為が曲者だ。普段はチャランポランに生きているのに、自己PRと言う形で自己を断言すると、まるで本当に自分がそういうモノのように感じる。自己PRに嘘は書いていないが、文章という形でそれを断言するという行為は、自己強化的な効果がある。

意識高い人がよくブログを書くのはこういう快楽を求めているのではないかとおもう。自分がやったことを書くと、嘘をついていなくても自己が強化されるような感覚がある。そのやったことが周りから見てちゃんちゃらおかしいことでも、自己強化の快感だけは味わえる。

なんか、映画のチケットを売り捌くためにたくさん買った人が、自分で全部見るって宣言して、やっぱやめたってブログに書くみたいな話があったけど、そのアホみたいな顛末も、当人からすれば自己強化の快楽なのかもしれない。

ストレス

あんまりにもストレスが強い時、頭が正常に動かなくなってしまったりする。そういう時はまるでストレスに乗っ取られたような感じになってしまい、正常な思考や行動ができなくなる。わたしは自傷とかはしないけど、なんかよく分からない本を買ったり、勉強を始めたりはする。あと何もできなくなったり。 そういう時に、その時の心情をノートに書いてみるというのはめちゃくちゃ効果的で、実際にセルフケアの本とかを読むと自分の感情やストレスを客観的に眺める方法とかがいろいろ載っている。 しかしそういう時こそ冷静になれないもので、なんだか難しいなぁと思う。

めんどくさいこと

詳しくは書いて特定されたりするのがめんどいのでめちゃぼかすけど、めんどくさい事件に巻き込まれてそれの後始末に方々に相談したり連絡したり調整したりしていて、くそめんどくせーって感じになっている。私は1mmも悪くないのに、金はかからんが手間がかかっている。理不尽さがある。

朝起きた時、何もかもめんどくさい、何もしたくないってまず思うのだけど、それは私にとって当たり前のことなのだけど、実は異常なのではって思えてきた。普通のひと、普通の人って誰だ? は普通、朝起きてまず何もやりたくないって思わないのでは。

あらゆることにやる気が出ない時期は、やる気が出ないなってよく考える。やる気についてよく考える。しかしやる気という便利な言葉で何かが覆い隠されてしまっている気がする。というかやる気が出ないことは事象の結果であって、やる気が出ないことそのものについて考えてもその原因はわからない。

ストレスの原因をストレッサーというらしいが、ストレッサーについて考えることもストレスだ。だからストレスの結果であるやる気のなさとかを考えてしまい、やる気のなさについていくら考えても何も解決策が出ない。生存はめんどくさいな。

買ってよかったもの2020

2020年買ってよかったものという記事を書こうと思っていたら2月になってしまった。2020年は生活に変化があり、さまざまなものを買い、大体のものはよかったが、強いて一つあげるならば ノイズキャンセリングヘッドホン wh1000xm4 だろう。
かぶっているだけで QoL 爆上がりの一品である。ヘッドホンを外した時に周囲の騒音にびっくりする。電車や飛行機での快適度が段ちがいに上がる。私は常に音楽が必要な人間ではなく、むしろ集中したいときは音楽いらない派なので買うの躊躇していたが、ノイキャンかけているだけで良い感じなのでよかった。
ところで私はなぜノイズをキャンセルしたいという欲求があるのだろうか。ふと電車で周囲を見ると、みんなヘッドホンかイヤホンをつけて携帯を見ている。通勤電車の車窓の景色など誰も見ない。五感をなるべく遮断してイマココから遠ざける。例えば電車で VR ゴーグルをつけてる奴がいたらやべえ奴だなって思うけど、でも携帯とヘッドホンで周囲を遮断するのと VR ゴーグルつけちゃうのとの差ってほとんどないし、むしろ VR ゴーグルの方が効率的で効果的だし、なんなら数年後はそっちがスタンダードになってるかもしれない。15年前は電車でみんなこんなに携帯ばっか見てなかったよね。
私がそこそこの金を出してノイキャンヘッドホンを買うこと、それを買ってよかったと思うことは、クソみたいな世界をより遮断できるからで、なんかそう考えるとすごい虚しくなってくる。ノイキャンヘッドホンを必要としない生活の方が、ノイキャンヘッドホンを買うことよりも幸せなのは自明だ。そもそも買ってよかったものという概念が資本主義に毒されすぎている。私たちは欲望を捏造され植え付けられ、それを満たすという一連の運動を「買ってよかったな」どと能天気に称している。
こんな文章書くべきではなかった。買ってよかったという素朴な感想が、その根源である偽の欲望を正当化してしまっている。欲望を肯定してそれを原動力に行動する牧歌的な時代はすでに終わっている。欲望を疑わなければならない。今日も世界はクソだ。

バレンタインとか

notion の iPad アプリでページを全文選択するとコピーできないというバグがあり、ブログを書く気が失せていた。

昨日ラジオを聴いていたら、バレンタインの話をしていた。男の人はたとえ義理でも貰えたら嬉しいもので云々みたいな話をしており、きもいなーって思った。まあこれは多分スポンサーへの配慮とかで、会社で女性従業員から男性従業員へとチョコを贈るというこれまたクソきもい風習が廃れないように的なやつなのだろう。あの会社でチョコのやつはマジで 1mm も嬉しくないしキモいだけなので絶滅してほしい。

というか、バレンタインにチョコをもらえないことを悲しむみたいなやつはキモいなってずっと思っていた。それこそ中学生くらいから。それってつまりホモソーシャルの内面化なのではないだろうか、いや知らんけど。雄としての価値のをチョコレートという形で表すホモソ的なものと、とにかくチョコが売りたい資本主義的なものの悪魔合体で、バレンタインというやつは醜悪なイベントになってしまっている。そしてそれを内面化して悲しむとかいう輩までいて、本当に地獄って感じだ。全てはクソだなと思いながらブラウニーを焼いたが美味かった。

違国日記の最新刊で男らしさから降りるとか、ホモソーシャル的なものの話をしていたが、私もまたそういうものにずっと違和感と気持ち悪さを感じながら生きてきたし、生きているなと思う。ああいうのは、私は全て部族的連帯感を演出するための儀式ないしは仕草だと思っていて、例えばクラスの誰それが可愛いとかの話題は私はまっっったく興味ないんだけど、部族的連帯感のために適当な無難な人で話を合わせたりする。実の所、その会話に参加している全ての人が興味ないけど、中身のない仕草だけを実行しているんじゃないかとすら思う。

しかしそういった仕草による価値観の消極的な共有というのがホモソ的なものを強化している気がする、拒絶していきたい。そもそも私たちはなぜ何かを共有することに重きを置くのか。あなたと私は同じであるということを常に発信し続けないと敵にされてしまうような社会や関係性をなぜ作ってしまうのだろうか

。あなたと私は違う人間なのだということだけを紐帯とすることはできないのだろうか。カミュが、世界は理解できないという不条理性だけを世界との絆としたように。

Notion で遊ぶ

相変わらず Notion が楽しくて昔書いたものを整理したりして遊んでいる。personal pro にした。
Notion はフォルダという概念がなくて全てがページである。階層構造を作りたい場合はサブページという形でページを入れ子にしていく。これがとても良くて、例えば私は本を読んだときに読書メモを作ったりするのだけど、まずはちょっとしたメモを単一のページで作り、掘り下げたいときに適宜サブページを作るというやり方がストレスがなくて良い。
フォルダという概念が存在すると、まずフォルダを作るべきかページを作るべきか悩んでしまうのだけど、Notion ではフォルダがないので悩まずにまずページを作れる。あまりにもサブページの量が多くなったときはデータベース管理もできる。
という一連の説明が、まず Notion を使っていないと何もわからないな多分。
今までは ulysses というノートアプリを一年契約していたんだが、多分これは ulysses 契約更新しないぞ、すまん。
ブラウザからアクセスするとタイムゾーンが日本にならないバグに悩まされている。

読書会

今年から、マルクスを読むという読書会を始めて、今日はそれの一回目だった。マルクスの入門書をいくつかよんで、できれば今年中に資本論を読むというのが目標になっている。

https://peatix.com/event/1731975

イベントおわってから宣伝するなよって感じですけど、次もやります。

読書会というのはいったい何なのかというのは読書会をやっているわたしもよくわからない。先生がいるわけでもないし、切磋琢磨するわけでも、ゼミとかでもないので別に課題本への理解が深まったりはしない。わたしは人前でしゃべることが好きでも嫌いでもないので、べつにしゃべりたくてやっているわけでもない。

ゆるやかな強制力のようなものなのだろう。ゆるやかな相互監視というか。