ゲームが上手いということ、正しい選択をするということ

ゲームが上手い、ということはものすごいテクニックを持ってるということではなくて、ミスが少ない、ということなのかもしれないと思った。あと相手のミスを見逃さない。

ゲームをしていると無数の決断を迫られる、戻るか進むか、攻撃か防御か、Aを攻撃するかBを攻撃するか、そういった無数の決断で、いかに正解を選び取っていくか、その正解率がゲームの強さなのだろう。

「技」は華々しい。フィギュアスケートや体操の選手が超人的な技を次々と繰り出すのは圧倒される。しかしそういう、純粋な技術比べの闘いはあまりないんじゃないか。むしろ将棋のような、無数の選択肢の中から最善の一手を選び続けて、ミスった方が負ける、というゲームの方が多い気がする。

将棋やポーカーは決断行為がある程度抽象化されている。決断は、どこに駒を置くか、あるいはベットするか降りるかという限られたタイミング、選択肢によって行われる。テレビゲームにおいては、それはもっとリアルタイムで流動的に不定形に行われる。

期待値の高い選択肢を取り続けることによる収束の差が、勝率やレートになって現れる。

そしてこれはゲームに限らず生活でもそうなのだろうなと思う。生活においても、無数の決断がある。ゲームとは現実の抽象化であるので、生活においては抽象されていないむき出しの現実がそこにあり、それに向かって決断していかなくてはならない。やはりここでもなるべく正解を、期待値の高い選択肢を選ぶ必要がある。それが強さだ。難しいのは正解とは何かをまず定義しなくてはいけなくて、そして自分が選んだ選択肢の評価方法も何か考えなくてはいけない。

そして決断の結果は跳ね返ってくる。それは即物的にはお金なのかもしれないし、幸せとか、メンタルヘルスとかなのかもしれない。

正しい選択をしていきたい

雨戸を閉めた

全然知らなかったんだけど台風がやばいらしい。全然知らなかったので呑気に洗濯などしていた。計画運休、良いシステムだと思う。いっそ明日はもうみんな休むということで良いじゃないかと思った。ゴミの収集は、通常通りにやるのだろうか。大変だな。寛容な世の中になってほしいとか漠然とおもう。

住んでいる家が古くて、窓に雨戸が付いている。一枚ずつスライドさせて出すタイプの。雨戸を閉めた。固かったので油をさした。

昨日は、久しぶりに水筒を持って出かけるなどしたら、いつでも冷たい飲み物が飲めて快適だった。水筒を持たなくなった理由としては、重いからというと、コーヒーを入れるとパッキンの匂いがして不味いというのがあった。冷たいお茶に関しては問題ないんだな。

飲み口の部分が複雑な構造で、ワンタッチで開くタイプ、複数のパッキンから成るタイプの水筒はコーヒーに向かないのかもしれない、どばってでて危ないし。ぐりぐりって回すやつの方がコーヒーに向いてるのかもしれない、などと思った。

家事への心理的障壁

最近はよく寝ている。よく寝ると体調が良いが、自分の時間が減ってしまうので精神に悪いということがわかってきた。部屋の掃除をうおりゃっとがんばってやってみたら久しぶりに床がみえたけど代償として机が使えなくなった。というようなことが重なってブログを書く習慣が途絶えてしまったので、今朝は頑張って机を片付けてPCをセットした。

最近は掃除を頑張っていて、朝起きて掃除機をかけたりクイックルワイパーをかけたりしている。家事の問題、というのは難しくて、もうずっと何年も悩んでいる。例えば食事が終わったあとにそのまますぐ洗い物できる人いるじゃないですか、すごくないですか、聖人ですか? わたしが見ているときだけ聖人ぶってるのかもな。その可能性は置いといて、すごいとおもう。そういう人にどうやってなるんだろう。

家事というのは結局スキルではなくて心理的障壁を下げることで、つまり日々ちょこちょこやっていくことでめんどくさいという気持ちをさげていくのが重要で、洗濯物たたむのとかクソめんどくさいし意味ないっておもってたけど頑張ってやってたらめんどくさくなくなってきた。あと家電。土曜の朝は洗濯機と食洗機とルンバが同時に動いてどんどん家事が進む、わたしはゲームをやっている。

淡々とこなす人間になりたい

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実際は、うだうだとなにもしない人間だ。やりたいことはたくさんあって、やりたいことと時間を勘定してみるとどうにも足らなくて、どうしたもんかなと思いながら時間が過ぎていく。そんな感じだ。

目標に向かって何かをするというのを怖がっている節がある。天才とは蝶々を追いかけながら山の頂上にたどり着く人だみたいな言葉を何処かで聞いたけど、これは人々の俗っぽい理想がよく表れているとおもう。あるいは頭文字Dみたいな、毎日豆腐の配達をしていたらいつのまにかすごいドラテクが身についていたとか。特に目標を持っていたわけでもなく、自分では鍛錬とも思っていなかった日々の生活が、いつのまにかすごい能力の訓練となっていたみたいなプリミティブな欲望、ロマンがある。これと対照的なのは二人の男が石を積んでいて、何をしてるのかと聞いたら一人は石を積んでいると答え、もう一人は教会を作っていると答えた話だろう。

自分なりに色々なことをやっているが、いまいちどれも身についてないなと思う。しかし何を身につけて何になりたいのかもよくわからなくて、興味の向くままにやっているしかない。

ワナビー」という言葉をたまに聞く。ネットで。正確な意味はしらないのだけど、何者かになりたがっている人のことを揶揄するような言葉らしい。多分スパイスガールズは関係ない。クソみたいな言葉だなと思う。誰しも何者かになりたいと思ったことはあるだろうし、それを諦めたり受け入れたり諦めきれなかったり隠したりしながら生きているのに。

プロメア

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朝、駅まで自転車で行くパターンと歩いて行くパターンがあるのだが、昨日は自転車でいったのに帰りは歩いてきてしまって、駅の駐輪場に自転車を置いてきてしまった、めんどくさい。

今日は休みだったので、朝から病院に行って、昼飯でビールして、キッチンを片付けるなどしてだらだらしていた。

今日も異常な暑さだった。SFで、地球が核によって汚染されて、人々はシェルターでの生活を余儀なくされるという設定がよく出てくるけど、このままいくと地球が暑くなりすぎてクーラーのついた屋内でしか活動できないディストピアがやってきそうだ。それはそれで、そういう環境に適応した文化が発生しそうでおもしろい。

人間が冬眠する生き物だったらどうなっていたのだろうと前に考えたことがある。ベッドや寝袋、高機能な空調設備など快適な冬眠のための技術が発達するだろうし、冬眠中のセキュリティ確保のための設備が売れるだろう、冬眠前には祭りのようなものが開かれるだろうなとか、考えた。

いま人間がもっている文化や技術というのも、人間という生物や、地球環境に適応しているもので、それらが少し変われば、いまとは全く違う価値観や技術発展をしていたのだろうと思う。

昨日プロメアを見た。2回目。もう流石にやっていないだろうなともって駄目元でしらべてみたらあっさりやってた。ありがとうヒューマントラストシネマ。終了未定とあったのでもう一回くらい行こうかな。プロメアは最高の映画だ。Blu-rayも買おう。

なんだろう、なにが素晴らしいのだろうな、とにかく素晴らしいという強い気持ちだけが先行していて、ちゃんと考えていなかったな。ちょっと考えてみよう。まずエンターテイメントとしてすごい。音楽と演技と動きと間と、そういうのがすごく気持ちよく組み合わさっている。ここにこういう音が入るとすごく気持ちいいというところに、ちゃんと音が入ってるみたいな、気持ち良さの洪水みたいな映画だ。

あとモチーフがしっかり行き渡っているのも良い。今回は三角形というのが火のモチーフになっている。それに対応するように四角形のモチーフもある。説明するのがむずかしいんだけど、絵が、三角形と四角形によって構築されている。モチーフが行き渡った世界観だ。たとえば太陽のグレア?っていうのかな、あのレンズに太陽光の筋とかが写っちゃうやつ、あれは四角なんだ。グレンランガンのときに、シモンのドリルの回転と、アンチスパイラルの回転が逆方向だったように。テーマがあって、テーマに適ったモチーフがあって、そしてモチーフから展開された世界というのは美しい。つまりモチーフから展開された世界というのは、その細部もすべてテーマに通じているからだ。

映画というのは山場があって、山場があればそのあとに落ち着くところがあって、そのバランスがむずかしいが、そこんところがプロメアはすごい。まず最初にブチ盛り上がるシーンから始まって、まじかよ最初っから飛ばしすぎじゃん、このあとどうすんだよってなるけど、一旦おちついてまたちゃんと盛り上がる。あれどうなってるんだろうな、なんでダレないんだろう不思議だ。

Trigger が作ってきたアニメ、作品群の根底にあった、本当にやりたかったことを超高濃度に圧縮したものがプロメアなんだとわたしはおもった。勝手に。なのでずっとそれらのアニメをみてきたので、もう納得しかない。なるほどねって感じ。

はやおき

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早起きがしたいと漠然とおもっていて、実際に目がさめるところまではいくのだが、特に朝起きてやることもないのでだらだらしたり寝たりしてしまう。そういうのじゃないんだよなと漠然とおもう。

実際に、やるべきことが全然ないのかというと、そんなことはなくて、やるべきこともやりたいこともたくさんあるはずなのだが、管理の問題なのだろうとおもう。

こどものころ、大人というのはなんであんなにたくさんの義務を持っているのだろうとおもっていた。それは仕事とかではなく、生活のなかで、よく大人は「○○しなきゃ」というようなことを言っていた。子供のわたしは、べつにしなくてもいいじゃんといつも思っていた。

最近になってわたしも、生活は義務に満ちているなと感じる。すべきことばかりで、すべきことをこなしていると1日が終わる。すべきことは、やりたいことから発生している、というか、やりたいことがあるとそれを達成するためにすべきことが無数にでてきて、義務となる。生活をもうちょっと快適にしたいとか、そういう素朴な願望が義務を生む。べつにやらなくてもいいじゃんと思うべきなのかもな。

課金した

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お金を払う意味で「課金した」という言葉を使うのはおそらく誤用だろうが、すでに十分に普及してしまった。こういう言葉はたくさんあって、誤用が広まってしまったものも、広まりつつあるものも、紛らわしいのでわたしはなるべく使わないようにしている。たとえば「確信犯」とかもそうだ。

「課金した」という言い回しのシンプルさは魅力的であるとおもう。フリーミアムが当たり前になった世の中で、課金することは決意であったり愛であったり妥協であったりする。金を払う行為のなかに含まれる様々な感情が端的に現れている。八百屋でキャベツを買う時に、課金したとは言わない。あるいは、特別な日に成城石井でキャベツを買う時は課金したというのかもしれない。

わたしが最近した課金というと、マニーフォワードという家計管理のサービスだ。これはもう何年かだらだら使いつつ、そんな自動管理で誰とも知らない人に家計情報を渡したくないとおもって使うのをやめた時期もあったけど、結局わたしには自力で家計を管理するのは無理だとおもって課金した。いつもなんとなく金がないという気持ちで生きている。働き始めてからは、いちおう黒字でやっていってはいるのに。月額480円。500円のコーヒーを飲むのに、今月いくらつかったっけと悩むくらいなら480円はらったほうがいいのかもしれないとおもった。この思考は論理的なのだろうか。

「課金」の「カキン」という語感が金を払ってるっぽくもある。