夏休み、労働について最近思うこと

 

仕事休みたいなと思ったので、わりと無理矢理夏休みをとった。先週の金曜日に相談してみたら、月曜から休むのがスケジュール的に良さそうということだったので、じゃあそれで、という感じでそのまま申請して、その日は退勤してそのまま夏休みに入った。

今の職場はお盆休みというものがなく、その分が有給でつくのでみんな勝手に休んでね方式で、逆に長期休暇がとりづらい感じになっている。まあそれはそれとして、空気を読まずに休むべきだし、体調を崩す前に休むべきである。

人間は日常を繰り返すようにできているのではないか。つまり同じ時間に起きて、同じ一日をすごすような個体が生存してきたので、人間は日常を繰り返すようになったのではないか。でも仕事がなくなると夜更かしをしたり、ご飯食べなかったり、かなり無秩序に生きるな?一人暮らしよりも家族と暮らしているほうが秩序ある生活をする。

人間が生活パターンを固定するのは結局社会性なのかもしれない。社会に属さなくても生存できるなら、眠くなったら寝て、腹が減ったら食う生活でよい。なるほど規則正しい生活というのは生存のために仕方なくやっていることなのか。くそじゃん。

リモートワークについての記事で、リモートワークは効率がわるいから廃止されて当然的なコメントが多数ついていた。使用者である経営者がそういうことをいうのはまだわかるが、被使用者である労働者がそういうことをいうのはよくわからない。なぜ労働者が会社の利益について考えるのだろうか? ツイッタージャパンがリストラされたときも、酒を飲んで適当に仕事しているようなやつはリストラされて当然みたいなコメントがたくさんついた。楽な仕事があること自体はよいことなのではないか?

リモートワークにしてもツイッターにしても、何であいつらだけ楽してるんだずるいぞ、という気持ちがあるんだろうなと思う。それはわかる。しかしずるいぞと正直にいうことはできないから、もっともらしい理由を持ち出す。それがリモートワークは効率が悪くて会社の利益にならない云々というやつで、しかしなぜそこで資本家的な理由を持ち出すのかやはりいまいちわからない。

でもまあ、ああいうのにわざわざコメントする人はそもそもやばい人なので、私には想像がつかないアクロバティックな理論で自尊心を保っているのだろうな。

日常の話にもどるが、旅行にはいったほうがいいし、長期休暇はとったほうがいい。それは日常から逸脱できるからで、日常を繰り返していると新しいことが起きなくなってしまうからだ。いつもと違う生活リズムになると、新しいことを考えたり、始めたりする、そういう些細な新しいことは大切だし、そのために旅行や休みをとったほうがいい。あと、単純に休んだほうがいい。私は疲れている。

過労死大国ニッポンだが、わたしはわりと、なめた感じで労働をしてきた。しかしここ半年くらいは私の人生史上最も働いていて、いや普通につらいなって思ってる。それでもいわゆるハードワーカーとか社畜とかの足下にも及ばないので、私は労働がむいていない。労働が向いている人が労働してほしい。

とりとめがない。なんとなく文章を書くとこうなる。私の頭の中はだいたいこういう感じで、いくつかの話題が常に平行して走っていてい、あっちにいったりこっちに行ったりしている。子供のころはよく迷子になっていた。

人生の答え合わせという言葉を最近目にした。人生の答え合わせをする年齢になってきたともいえる。なにかを地道に続けてきたひとは、金銭的はどうあれ、その方向でなにかしらの実績を残しているなと感じる。わたしは、たまたま運がよかったので、労働者としてなんとか生存しているが、労働以外には社会から認知されるものがなにもないな? というか労働だって、私の仕事そのものは社会に何の影響も及ぼさないので何もない。何もない気がしてきた。でもそれでよいのです。目の前の人の役に立って、また一緒に仕事がしたいと思ってもらうことが最も重要である。あとは大切な人を大切にしましょう。

わかっているのだが、時折、なんもねーなー自分、という気持ちが押さえられなくなる。かといって何もしない。