生活と労働と消費

生活と労働と消費

一日が、生活と労働と消費で終わってしまう。労働が終わると生存に必要な家事などをして、残ったわずかな時間で消費活動をして寝る。そういう一日になっている。端的につらいし、資本主義に組み込まれている。

「よふかしのうた」で、人は一日に満足できないから夜更かしをするという台詞があり、なるほど確かにと思う。しかしひとつ間違っているのは、明日があるから夜更かしができないということだ。そして一日の不満足を消費で満たそうと試みる。youtube を見たり、twitter を見たり、つまり広告を見ることによって満たそうとする。

時間泥棒について思い出す。「モモ」に出てきた時間泥棒は、効率化をせまり、人々をせわしなく働かせて時間を盗んでいくというものだった。現実の時間泥棒はさらに洗練されていて、私たちの余暇の時間をすべて消費に向かわせることによって時間をさらに盗んでいく。

いや冷静になって、ソファに寝転がってぼーっと動画をみることが人間的な幸福なのだろうか? それは疲れ切っていて能動的に余暇を楽しむことができないから、もうただぼーっと安易な情報を摂取し続けることしかできない、という消極的選択で選ばれた行動な気がする、少なくとも私はそうだ。現代のサービスはそういうふうに最適化されている。とてつもなく雑ないいかたをすれば、私たちが疲れれば疲れるほど、広告を見てくれる。

日記を書かなければ、私の言葉は常に誰かに向かって発せられるものであり、私の思考は現実の何かへの反応である。そして一日は労働と生活と消費なので、私は終始それらに反応し続けることで一日を終える。そういうむなしさがある。 仕事でたくさんのことを考えるが、それもすべて仕事で必要だから考えているにすぎないことで、なんというか、反応的だ。ゲームに例えてみると、あるゲームでどの武器が強いかということを真剣に考えたりするし、それはゲームの攻略において有用だが、ゲームの外側では何の意味もない。 なるほど、それを考えることによって、論理的思考力のような能力はたしかに鍛えられる、しかしやはり意味のない問題に取り組み続けているという虚無はある。ゲームは楽しみのためにやっているが、仕事は単に苦痛だ。

この話は勉強意味ないじゃん論もそうだな。定期的に、因数分解なんて実生活で使わないという話があがって、それに対して勉強することで考える力がつく云々という反論があるが、因数分解つかわないということそのものには反論してないし、意味のない勉強をさせられているという子供の感覚は拭えないだろう。

私の一日は生活と労働と消費しかないし、私の思考もまたそれらの領域を出て行かないという、自己の破滅的な貧しさに直面する。

合理的な人間であれば行動を予測しやすいし、制御もしやすいが、現実の人々は合理的ではないのでうまくいかない、という問題への解決方法が、人々をたくさん働かせて疲れさせる、というものなのではないか。疲れて思考力が鈍れば、行動を誘導しやすくなる。時間をかけて凝った料理をつくるよりも、uber eats で注文した料理を食べながら広告をみてくれる人のほうが、資本主義的により好ましい。

問題は構造的なので、安易な解決はできない。明日から4時間しか働きませんというようなことはできない。ここにきて、日記を書くという1946年的な反抗が現れてくる。私を取り囲む構造の中で反応するのではなく、その構造そのものと外側について少しだけ考えてみる。意味は、ない。それは私を救わない。しかし虚しさに耐えられないから人は書くのだと思う。