詩的なもの


ものすごく久しぶりに深夜のファミレスというものにいる。居酒屋とは違うガヤガヤ感、若者の笑い声、ドリンクバー、明るい照明、そういったものに囲まれている。ファミレス、学生の頃はちょくちょくいっていたが、次第に行かなくなるというか、まあいく理由なくなるよね、別に美味しくないし、特段に安いわけでもないし。カフェだって、隣でよく詐欺くさい話をしていて最悪っぽいけど、まあファミレスよりはましって感じがするのでカフェに行ってしまう。でもファミレスではあんまり詐欺の話してないかもね。

詩の話を書こう。生活に詩がないなという印象を、「パターソン」という映画を見たあたりからなんとなく思っていた。生活というものは実質的なものに埋め尽くされていて、それは生存のために必要な生活と、生存のために必要な金を得るために必要な労働でほとんど占められている。どちらも実質的な目的に基づいていて、それらに従事しているとき、私は合理的で目的に向かって進んでいる充実感が得られる。その目的というものが無意味であることを除けば。

余暇の時間には、余暇の時間用の娯楽が用意されていて、私はTwitterをやって広告を見たり、ゲームをやって広告を見たり、漫画を読んで広告を見たり、後は何かを買ったりしている。ものすごい速さで生産し、それらをものすごい速さで消費し尽くさなければならない、とアーレントが書いていたが、全くそのような日々を送っている。

そこには詩的なものが何もないと感じる。詩的なものとはなんだろうか。生産とも消費とも切り離された、私が発見したそこにある良さのようなもの。あるいは他人が発見した良さを理解しようと努めること。良さは現れる、唐突に、私の生活の文脈をぶった切るように。その時に立ち止まってそれを拾うということ。

私は定期的に、詩的なものを求めて詩集や歌集を買ったりする。しかし正直、詩や短歌を読むのは苦手だ。多分ゆっくりとしか読めないからだと思う。普通の文章なら、かなり類推が効くので、平易な文なら半分も読めば意味がとれる。難しい文章であっても、全ての文をじっくり読む必要はなく、とりあえず重要そうなところさらう、ここは重要そうじゃないからざっと読むみたいなことができる。しかし詩というのは結局全ての言葉がそこにあることに意味があるのであって、読み飛ばして意味を類推することはできず、一語一語追っていく必要がある。その遅さが苦手なんだと思う。