ハンバーグを捏ねる

ハンバーグを作るときは、多めに作って形成した状態で冷凍しておくと色々と便利なのでよくやる。しかし肉を捏ねながら、これならばすでに形成してあるハンバーグのたねを買ってくる方がいいのではないかと思ってしまう。それは単純にコストの問題で、ひき肉から作った方が、出来合いのハンバーグを買ってくるよりも安い、もっと言えばレストランでハンバーグを食うよりも安い。だから結局私は、金がないから自分でハンバーグを捏ねているとも言える。

日本では自炊というものになんというか、信仰というか、ちゃんと料理を作るべきというか、ちゃんと自分で料理を作ること、家庭料理というのは良いもので大切なものだというような価値観があるように思う。私もやはりそのような価値観のもとで自分で料理を作っているという側面もある。まあ料理は好きだしな。

以前にインターネット読んだ文章で、ある高収入夫婦の夫が家事や育児を積極的にやっていたら、妻から、あなたはそんなことをするべき人ではないしそういうことはヘルパーに頼めばいい的なことを言われ、価値観のすれ違いで結局離婚したというのを読んだことがある。なるほどという感じがある。

すごい単純化すると、自分の時給が家事ヘルパーさんへの時間あたりの報酬を上回る場合、ヘルパーさんに頼むのが合理的ということになる。

家事は虚しい。洗い物をしてもまた食器はすぐに汚れるし、掃除をしてもすぐに部屋は汚れる。生きるため生活するためにどうしても必要な作業を私たちは家事と呼んでいる。なぜ生きねばならぬのかという抽象的で実存的な問いは、家事によって具体的な現象となる。家事とは生存の不条理さの凝縮だ。

賃金労働もまた生存のために必要なことなのだが、こちらは歴史的経緯、男尊女卑や家父長制、資本家による狡猾な搾取戦略などの様々な複雑な要素によって社会的地位や「やりがい」などが付与されている。というか我々の社会が労働をそういうふうに仕立て上げてきた。その結果、ごく一部の賃金労働においては生存の不条理さ、虚しさが隠蔽されている。つまり一部の労働においては家事において見られるような、生存のためだけの作業に自分の肉体が消費されていくような虚しさを感じにくい。

だから家事は生存の不条理的虚無に直面しており、賃金労働はそれからある程度距離をとっている。そして丁寧な生活というのは家事労働に楽しみややりがいを見出すことにより生存の不条理的虚無を和らげようという試みなのではないかと思う。それはつまり資本主義が賃金労働で達成したことを家事労働でもなぞろうとしている。

だから、賃金労働で高い賃金をもらって、出来合いのハンバーグを買うこと、家事をアウトソースすることは生存の不条理的虚無を自分から遠ざけることになる。それは現代では「成功」とみなされる。それができるのは一部の人だけだ。

家事労働も賃金労働も、生存のために必要なことという意味でどちらも等しく労働である。しかしそれらが全く別のものとして扱われているのが実情であり、それは正しいのだろうか。資本主義的労働は生存の不条理を和らげることに成功したのだろうか。もちろん資本主義はそのようなことを目的とはしないが、搾取の加速の副産物としてそのようなことが達成されたかどうか。家事労働が資本主義的労働をモデルとすることは良いことなのだろうか。