日々が在る

日々が在ると感じる。生活という即自、無限の密度をもつ必要性に満たされたものが在る。

さらざんまいというアニメがおもしろい。テーマはつながりとか欲望とかそういったもので、テーマにむかってストレートに突き進む表現がすごい。偏執的な欲望を持った者に「欲望か愛か」と問うシーンが毎回ある。しかし果たして自己自身を振り返ってみて、そんな明確で明瞭な欲望をもっているだろうか。

また強い無力感がやってくる時期になっている。しかし問題はない、必要なことというのはまさに山ほどある。平日においては労働が、休日においては生活がある。必要なことをやっていればいつのまにか終わっている。早く終わらないかなとわたしはいつも思っている。

欲望ってなんだっけって感じだ。仮に真の欲望というものがあるならば、それを自覚し、それに向かって行動することはとても大変だ。具体的には洗い物を早く終わらせたり、早起きしたりして時間をつくらなといけない。めんどくさいな。そして真の欲望というものがあるならば、偽の欲望というものもあるだろう。資本主義は欲望によって駆動している。私たちがより良いものやより新しいものを欲し続けなければ停滞してしまう。だからわたしたちは様々な欲望を植え付けられている。それは労働の合間のわずかな時間と搾取されなかった労働の価値(給料)でちょうどまかなえるか、すこし足りないくらいに設定されている。

わたしはそういった何者かに植え付けられた欲望をたくさん感じる。なぜほしいのかわからないし、手に入れたあともなぜほしかったのかわからないものがたくさんある。その欲望はわたしなのだろうか。

さらざんまいでは、死してなお欲望の虜である者をカパゾンビと呼ぶ。しかし外的なイデオロギーによって喚起されたのではない欲望を保持し続けている彼らをわたしはうらやましいと感じる。

生きるとは何だろうと若いころの私は思った。生きるとは生活なのだなと、もう少し年をとってから思った。では生活となんだろう? 捕らえ所のないものだろうか。とんでもない。生活は存在する。石ころが、その存在を現れと本質に二分できないように、生活もまた存在する。生活に本質はない。無限の存在密度をもってただ存在している。

その生活を支えていると、わたしもまた現れも本質も欲望もなく、ただ必要性の存在になってしまうような気がする。即自存在を存在減圧するのが人間の無化する能力ならば、生活を減圧するのもまた人間固有の能力なのだろうと思う。生活を無化するもの、在るべき姿を想定し、欠如を認識し、欠如者である不安をうけいれるということ、減圧された生活は、超越し、超越にむかって進むから、不安だ。欲望、欲望を手放すな。