通勤の消滅

精神がどれだけ振れ幅があるかみたいな、そう言うのは個人差があり、わたしは不安が強い。久しぶりに文章を書いている。書くという行為。

生活、つまりアーレント の言うところの労働はわたしの生命を消費しており、通勤は不自由だが不自由故に本を読むくらいしかやることがなく、本を読んでいた。それは逆説的に労働に抗うものとなっていたのだと気づいたのは通勤が消滅したからだ。

通勤がないことはこの上なく快適であるが、それは賃金労働と私生活の緩衝が取り払われたことになり、いよいよなにもかもが労働となりつつある。

8時間寝ることを鉄則とし、通勤中に読む本と、なんとか捻り出した作業時間に読書ノートを作ることが、わたしの人間らしさを保っていた。三ヶ月ほどかけてなんとか作った習慣は壊れてしまった。

結局のところやはり労働が悪なのだ。あと低気圧。