無気力と闘っている

自分が取り組んでいることに対して、何か少しでも嫌なことがあると、いやそもそもやる気ないし、意味もないし、もうなんか全て嫌だ、という気持ちになり、何もかもひっくり返して無気力状態になる、という現象と闘う日々。

自分が能動的にやっている活動ならばまだよくて、それは自分で始めたことだし、まあいろいろな感情はあるが少なくとも好きでやっていることなので仕方ないがんばるかというふうになるが、賃金労働は生存のための消極的選択なのですぐに無気力になる。

別に無気力でいいとは思うのだが、わたしの精神状態はどうあれやることはあまり変わらないので、精神が悪化するとそれだけ損している気もする。

無気力は消極的な服従でもある。労働環境を良くしたり、より労働環境の良い職場へ移ったりすることは能動的な意思が必要であり、無気力からはなかなか生まれない。日々というものは、生活にしろ労働にしろ、それを維持することでいっぱいいっぱいで、小さな改良はできるけど大きく根本から変えようとするのは難しい。

大きく変えようとするのが難しいというのは、まず心理的な問題で、日々のルーチンをこなしながらその外側や理想を想像するというのが厳しい。キャパシティ的にも厳しいし、理想について考えると現状を否定されたような気持ちが発生するため無意識で避けている気もする。

それがクリアできると、遷移したい状態への現実的なステップを考えなきゃだし、これは本当に難しいし、時間もかかる。さらにそれを実行するとなると気が遠くなる。日々の忙しさや様々な不条理はわたしを無気力にさせ、社会に服従させているのだという陰謀論は現状認識としてはあながち間違いではない。陰謀が存在するかどうかは置いといて。

1984年』で、主人公が自宅についている監視カメラの死角でこっそり日記を書くシーンというのがあった。あれを読んだとき、ディストピア社会においては、日記を書いて自分で物事を考えることが反逆や抵抗の第一歩となるのだな、秀逸な演出だなと思ったが、あれはディストピアどうこうではなく、現実の世界の話だったのだ。実際に、日々の中でものを考える時間などない。

わたしが考えることといえば、仕事のことや生活のこと。仕事上のある課題をどうやって解決しようかとか、そろそろ選択しなきゃなとか、そういう、「内側」のことばかりである。本を読むと、そのこ秩序があることに驚きと安心を感じる。それは論理に従って書かれており、外側へ至ろうとしている。資本主義の外側、認識の外側、存在の外側へ。対してわたしの日々の考え事には論理はなく、ただ問題を適切に処理するというものである。そこにおける上達とは、よくわからないけどどんどん速くソリティアが解けるようになっていくのと同じだ。思考が労働に最適化してしまうことが恐ろしい。

だから日記を書くということ、本を読むということ、外側について思考を巡らすことは、現代においても十分に反逆的行為なのだ。