つらみの言語化

これはここ数年ずっと思ってること何だけど、自分のつらさが言語化できない。その時々に様々つらさがあり、それらに共通する普遍性のようなものもあり、それを掴もうとしたり、解決しようとしたりはしているんだけど、その日々感じているつらさを、何か言葉にして表すことができない。

たとえば詩人とか歌人とか、言葉を扱うことを専門とする人たちは、こういう問題についてもっと上手く解決できるのかなと思ったりする。どうなんだろう。そういう人たちは、自己のつらさについて、わたしよりも鮮明に捉えて、それを他者に伝えることができるのかもしれない。

つらさの直接的な原因は私生活なのだから、それを克明に書くことによってつらさを表現できるのかもしれない。でもわたしは拗らせているので私生活についてオープンにしない。なんなら友人にもそれぞれにそれぞれの嘘をついていたりするので裏を取られるとめんどかったりもする。

つらさを言語化していく作業の中で、わたしのつらさがとても平凡なものであるということが判明するのが嫌というのもある。これも拗らせであるなと思う。

お前は恵まれている、という呪いの言葉を受けている。いつどこで誰に刻まれたのかわからないが。私生活について話したり、つらさを詳細に伝えたりすると、この呪いの言葉が発動するんじゃないかと恐れている。