自慢すること

他人の自慢話というものは、みんなあんまり好きではないとおもう。好きではないけれど、人間関係のパワーバランスとか、お互い様だよねとかで、仕方なく聞いているという事が多いとおもう。そういった自慢話における嫌さのようなものは置いておくとして、自慢話をするということはなんとももったいないことだなあという感じがする。

自慢するほどでもないことを自慢していると言いたいわけではない。何事かに打ち込むこと、生存すること、行為すること、勇気を出すこと、それが他者からみてどんなに些細なことでも自慢に値すると私は思う。すべての人間は、朝起きられただけでまず褒められるべきだ。褒めてほしい。

例えばある仕事を数十年続けているおっさんがいるとして、それはほんとうにすごいなとおもう。まずその歳まで生存していることがすごい、よく自殺しなかったなとおもう。そしてひとつのしごとを数十年やっているのでそりゃもう技術がすごい、ちょっとやそっとでは太刀打ちできない、一本指でしかタイピングできないとかは完全に瑣末事だ。わたしはそのひとを尊敬する、すげえなって。そのひとは自慢する、おれはすげえだろって。それは事実だし、それによっておっさんの凄さは減らないんだけど、そのときにわたしはもったいないなって心の中で思ってしまう。すげえだろって言う時、すごいですねって言われることを求めているわけで、それは自然な欲求なんだけど、そんだけすごいことを、すごいですねって言われるために使ってしまうのかという、なんというかそういうもったいなさのようなものを感じる。

芥川龍之介の「文章」という短編がある。主人公の堀川保吉は教師をやりながら小説を書いて投稿などしている。その文才を買われてか、よく翻訳や作文などの雑事を押し付けられる。ある日彼は本田大佐というひとの弔事を頼まれる。保吉は本田大佐のことを知らないが、履歴書と人から聞いた話で30分ほどで弔事を書き上げる。 葬式で弔事が読み上げられると、親族は鼻をすすり上げ泣き始める。その光景はみて堀川はおもう。

保吉はこう云う光景の前にまず何よりも驚きを感じた。それからまんまと看客を泣かせた悲劇の作者の満足を感じた。しかし最後に感じたものはそれらの感情よりも遥かに大きい、何とも云われぬ気の毒さである。尊い人間の心の奥へ知らず識らず泥足を踏み入れた、あやまるにもあやまれない気の毒さである。

語るということは暴力性がある。それは一人の人間をある形に要約してしまう。言葉を尽くして誠実に語るということもできるが、多くの場合は時間と技術の制約によって、あるパターンに押し込めるということになる。自慢話の気持ち悪さはそれが一般生をもってるということなのかもしれないとおもう。自慢とはある程度パターン化されている。なぜならば自慢しうることは社会的に、すくなくともその共同体において容認されていなければならないからだ。世界一周をして世界中で大麻を吸ってきたというエピソードはヒッピーの間でしか自慢話にならないけれど、ヒッピーの間ではありきたりな自慢話だろう。あまりに特殊なことは自慢しえない。そしてその一般性は人生の一回性を愚弄している。

イヨネスコは優れた批評とは一般に退かないものだといった。もし優れた自慢が、その生を誠実になぞるならば、それは良いものとなるのかもしれないが、それはもはや自慢話の域を超えているだろう。