意趣返しと復讐と報復について

これは漠然と思うことなのだけれど、「相手の論に乗っかって上手いこと意趣返しをする」というのは良くないんじゃないかとおもう。

例えば、「教育上体罰もまた必要である」と明言する A という人がいるとする。B は「どのような状況でも体罰は許されない」という信念を持っており、A の思想は間違っていると感じている。そこで B が「なるほど、では教育上必要であると判断するので、おれはおまえを殴る」と A に言う、あるいはそのように考えて溜飲を下げるなどする。これ、これな、この B の行為というか考え方はあんまりよくないんじゃないかなーって思う。つまり気に食わない思想や論理に対して、それを採用するとあなた自身に危害が及ぶけどちゃんと考えてんの ? と指摘する、もしくは脅すようなやり方だ。

B は「どうだ言ってやったぞ、ぐうの音もでないだろう」と内心ほくそ笑むだろう。しかし A が「全くその通りだ、さあ殴れ」と言ってきたらどうするだろうか。あるいはある特定の民族を迫害する権力者が、彼自身がその民族の出自であると判明したとき、一瞬の躊躇いもなく自らの思想とこれまでの行為に基づいて死を選んだ時、一体なにが起こるのだろう。

上手い意趣返しを行うその前提には、こいつは結局自分の利益や快楽を追求しているだけで、理屈は隠れ蓑にすぎない、隠れ蓑ゆえに自分に害が及ぶとなれば手のひらを返すだろうというあなどりが存在している。ゆえに矛盾、その理屈を採用するとあんたにとって結局都合がわるいことが起こるよということを指摘する。しかしその期待を裏切って、暴君が彼の思想を全うしたとき、暴君は死ぬが思想は生きる。

おかしな話になってきた。そもそも一体なにと闘っていたのだろうか。ここで「B」を「わたしたち」にすり替えるという典型的詭弁を行おう。一体わたしたちはなにと闘っているのだろうか。

わたしたちはある思想に闘いを挑んでいる。それはわたしたちの自由や尊厳を毀損しようとする思想だ。そのような思想を社会が採用し、それに従って意思決定が行われることが最悪の未来だ。わたしは今、特定のイデオロギーについて語っているのではない、わたしが闘うべき相手は個人ではなく思想であり、目の前の個人をぎゃふんと言わせることはあんまり意味がないということだ。

最もよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ。

ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの言である。