善悪について

善悪について考える。わたしはいつでも不安だ。心理的安全性が低い。何度か書いたかもしれないがわたしは怒られることを異常に怖がる。怒られてはいけないという意識が強い。怒られる、というのは悪いことをしたということだ。悪いこととはなんだろう。わからない。本当にわからない。

善悪というもの。人権を侵害する、殺人や傷害、搾取などは悪いことだとわかる。しかし日常的な行為は善悪がわからない。

例えばわたしは別に、会社に行って仕事をしなくていいと思っているが、それはどうやらダメなことらしい。つまりそういうことだ。何が悪いことなのかわからない、何をすると怒られるのかわからない。

悪い親の典型としてダブルスタンダードや、怒る時の基準が支離滅裂というのがよくあげられるが、社会がそもそもそういう性質を持っている。社会は突然怒りだす。こわいな。

遅刻は悪いことなのか、五分の遅刻はセーフで10分の遅刻はダメなのか、あるいは五分前には到着していないとダメなのか、これらは結局その時々の組織や文化によるもので、そこに価値観に合わせていくしかない。わたしとしては定時に仕事を始めるということがそもそも意味わからんので、もはや何が悪いのかそもそも理解できない。理解できないものに合わせていくのは辛い。

万事が万事こんな感じなのだ。わたしが悪いとは思ってないことが、社会では悪いことで、それはその時々の社会に合わせて、基準を探って行かねばならない。善悪はもはやなく、ただ空気を読んでいる。とにかく善悪の判断基準はめちゃくちゃだし、人は突然怒る。

合理性はわかりやすい。わたしは優先席に座るし、エスカレーターの右側に立つ。合理的だからだ。

敬語もだるい。敬語はもはや自動的だ。敬いはない。むしろ敬語を使わないことこそ、親しみと敬いの表現だ。

人は突然怒る。勝手に怒っててくれ。