書くことと書かないこと

昨年末からブログに日記を書いている。1日600〜1000字くらい書いている。特にテーマを決めずに、その日にあったことや考えたことを適当に書くのは結構楽しい。ブログはこれこれについて書こうと決めて書き始めて、うまくまとまらなかったり、よくわからない感じになってしまって結局公開しないということがよくあるが、日記はともあれ公開してしまう気軽さがある。

その日にあった様々なことについて、書くことと書かないことを選別することになる。書くべきこととは何なのか。その選別にはわたしの自尊心やこじらせが大きく関わっている。生活に関する大きな要素に全くふれないこともあれば、嘘を書くこともある。書くことはやはり、人に見せたいわたしの部分なのだ。

じつは日記は、もうずいぶん昔から書いている。中学三年くらいから、断続的に書き続けていて、アナログデジタル問わず結構な量がたまっている。これをたまに読み返すのはたのしい。書かないことはそれが些末なことであるというわたしの主張であるときもある。わたしの昔の日記には、個人名がほとんど出てこない。たとえば友人といざこざがあったときに、その事柄について書くことはあっても、その友人の名前は決して日記に書かない。そしてその事柄についても直接的に書くことは少なく、それによってわたしがなにを感じたかということが書かれていることが多い。これはわたしが他者に興味がないということの表明である。誰への表明なんか、わたしへの表明だ。

もうひとつ理由があって、日記は、わたしにとって神聖な場所だ。それは誰も入ってこれないという意味だ。わたしは実のところ内心を信用していない。内心はじつはなにかによって他人に漏れてしまうのではないだろうかという不安がうっすらとある。わたしは存在を確信していない。わたしの存在は他者によって脅かされるという恐怖が常にある。だから日記は、誰も入ってこれないが故に神聖だ。日記に他者の名前を書くことは、神聖な場所に侵入されるということだ。

今の日記でも、労働について書くことは非常に少ない。労働はわたしにとってわざわざ書くに値しないことなのだという幼稚な反抗だ。

書いている間わたしは、どうしようもないなと思っている。くだらない見栄をはっている、それは私自身に、いるのかわからない読み手にたいして。てらいなく文章を書けるというのはどういうことなのだろう。

それでもやはり自分の書いたものはたのしい。わたしが興味あることや切実なことについて書いているし、感情移入ができる。