理性のない資本家よ

二年ほど前に同人誌を書いた。それは人間が人間ではないものになってしまう瞬間について書いた本だった。私は日々接する人間を、人間的なものだと思って接している。それは、相手が、私と同じように何かを考え、何かを感じ、同じ世界を別の視点から共有している存在なのだと思っている。しかしその前提が突然崩れてしまうことがある。それは喧嘩とかイデオロギーとか大袈裟なことではなくて、本当に些細な言動や挙動で、私は非人間的なものと接していたのだと気づく時がある。そういう、不条理な瞬間について書いた。

今日はそのようなことがあった。この人は一体何をいっているのだろうと私は思いながら聞いていた。いや何をいっているのかはわかるし、どのような価値観に基づいた発言なのかもわかる。決定的に違うのだ、認識が。私たちは世界の認識が決定的に違ったし、互いが互いに誤解したままだった。

詳しく話す気はないが、適当に濁して書き散らしていると私を中途半端に知っている人にあらぬ誤解を与えてしまうから明言するが、私が今日対峙したのは資本家と家制度がグロテスクに合体したものだった。気持ち悪かった。つまるところ資本家に理性などないのだろう。彼らは利益を最大化して生き延びること、資本家であり続けることを最優先するし、その具体的方法は、自分が偶然成功した方法にしがみつくというものだ。そしてそれは、資本主義においては大体正しい。短期的には利益が出るから。

自分が何をいっているのか、自分でわかっているのだろうか。多少は尊敬もしていたから、その失望もある。ともあれ身の振り方を考えねばだし、謎のモチベーションも沸いた。そういう日だった。