2019/03/06

行為が重要であるということはわかる。なにかを考えたり表明したりすることではなく、行為が価値を決定したり新しいものをもたらしたり、人生を開いていくという漠然としたイメージはわかる。ではどのような行為が?

図書館で借りてきた本をまた読んでいた。ジジェクについて書かれた本だ。書名はずばり『スラヴォイ・ジジェク』。最初の章で、ジジェクがどれほど素晴らしいかということがとくとくと書かれていて、うわーと思ったけどそれ以降はわりとちゃんとジジェクの思想の解説をしてくれたので良い本だった。翻訳書が日本の本よりもなんかよく見えるのは、わざわざ翻訳するくらいだからそこそこのもんなんだろうという予測があるからだ。

ジジェクは、911について書いた本をよんだことがあるが、なんかよくわからないなという印象だったが、解説本を読んで興味が湧いたので『イデオロギーの崇高な対象』をキンドルで買った。

ところで書名は二重かっこ『』で記すのが一般的らしいということを最近しった。

図書館で借りた本を通勤中に読んで、読み終わったら帰りに返却ポストに投函してくるというパターンが結構良い。手元に本がなくなったらまた図書館に行って借りる。

去年の暮れくらいから読んだ本の記録をつけている。読書記録というのはどれくらい本を読まなかったかという記録だなと思う。梅棹忠夫が、読書記録をつけると自分がどれだけ本を読んでいないかわかるのでそのためにつけるといいというようなことをどこかで書いていた。

朝起きてパンを焼くこともまた行為だが、これが決定的な行為とは思えない。行為が重要であるということを考える時、そこには「ある種の」という言葉が隠れている。ある種の決定的行為が重要であり、それ以外は重要ではない。そのような行為の差別がそもそもおかしいのかもしれない。決定的行為なんてものはなくて、全ての行為が等しく重要であるというような。

生活も生存も、なんだかよくわからないままに進んでいく。みんなはよくわかっているのだろうか。