堕天作戦が面白い

『堕天作戦』という漫画を読んだ。めちゃくちゃ面白い。数百年後の地球で、魔人と人類が戦争をしている、不死者の主人公が幼体成熟の魔人レコベルと出会うことから物語が始まる。

 

設定が膨大で複雑で魅力的で、最小限の情報しか読者には開示されず、しかしそれが物語のテンポを崩さないで読者を引き込む力になっている。

 

例えば冒頭から魔人、魔法、幼体成熟などが当たり前のように出てきて、特に説明はない。なぜならば登場人物たちにとっては当たり前なのでわざわざ説明する必要はないからだ。読んでる方は戸惑う。そして会話は極めて端的というか、これも説明が少なく、テンポよく進む、会話の端々からこの世界のことを少しずつ知ることができる、知るほどにこの世界は複雑で残酷ということがわかる。この、感じがとてつもなく面白い。

 

もちろんストーリーもキャラもよくできている。アニメ化して欲しい。細かい事情は知らないが、現在は自費出版をしているらしい。とりあえずKindle購読に登録しておいた。応援していこう。

怒りを研ぐこと

『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』を読んだ。久しぶりにグッとくるエッセイを読んだという感じがある。エッセイ自体久しぶりだが。著者の、世界への怒りが、研ぎ澄まされた怒りが満ちており、良い。

 

社会への提言や、理論を構築するのではなく、個人の経験に深く根ざした怒りを書くことで人々を蜂起させるというのは、エッセイにしかできないことなのかもしれない。著者自身も言っているがアジテーションである。

 

私もかつては繊細な怒れる若人だったのに歳をとって丸くなってしまったなとかいう謎の架空の感傷に浸ってしまった。いや怒りは風化させず、きちんと研ぐべきなのだ。この本の中でジェームズ.C.スコットのアナキスト準備運動について触れている、それは日々信号無視などの小さな法律違反を行い、アナキストとしての準備運動をするということなのだが、私もまた、世界の不条理への怒りを日々研ぐべきなのだとおもった。世界への二分間憎悪だ。

 

 

受け身の対応者

Twitterで呟くと思考が回るみたいな現象は確かにある。それは誰かのツイートに反応したら、誰かがそれとなく反応してくれたりするからかもしれないし、あるいは1ツイートという投稿することで確定させ、それが修正できない、そしていつでもぶつ切りで止めることができるという気軽さ、そういうのがうまいこと機能して、Twitterは思考が回る、気がする。これだけがTwitterの唯一の利点であると私は思っていて、他に利点は何もない。

 

受け身の対応者という言葉について考える。これはスティールボールランでリンゴォロードアゲインがジャイロにいう言葉で、対応する技術だけを研ぎ澄ました人間では到達できない領域があり、そこには漆黒の殺意が必要であるみたいな話だ。

 

ところで私の生活というのは全く反応しかないなとここ数年思っている。私はやってくる仕事や家事を捌いており、自分のやりたいことなどないという気がしてしまう。という日々の中で

リンゴォロードアゲインの対応者という言葉を思い出した。

 

それは単なる連想でしかないが。

シン仮面ライダー

なにも、なにもしたくない、なにもしたくなくても、家事と労働はしなくてはいけないので結局のところそれらで人生が埋め尽くされてさらになにもしたくなくなるのではないか。つまりなにかしなくてはいけないのでは? つらぁ。

シン仮面ライダーを観てきた。0点か120点の怪作みたいな言われ方をしているが、わたしはあんまり楽しめないほうだった。映画の中に配置された人間ドラマがどれもとってつけたようなもののように感じられてしまった。

なんというか、シンシリーズは壮大なギャグというか、大人たちの本気の悪ふざけという感じがする。シンエヴァで本気なのかギャグなのかわからなくてみんな困惑したじゃん、あれがずっと続いてる。それは異常なクオリティで作られた張りぼてのようなもので、オリジナルへの敬意と最新の技術技法が合わさった芸術だが、中身がない。

シンゴジラでは震災が、シンエヴァでは私たちの今までのエヴァの視聴体験が、その張りぼての中身を満たしていたように思える。シンシリーズは完璧な張りぼてで、受け手が自信の記憶と経験でその中身にテーマを実体化させて初めて完成するように感じる。そういった意味で、シンウルトラマンとシン仮面ライダーは、わたしが満たすべき実体をもっていなかった。私の隣にすわっていた人(他人である)は上映中になにかをぶつぶつつぶやき、そして終わったとに拍手喝采していたので、彼にはなにか、満たすべきものがあったのだろう。でも映画はもうちょっと静かに観てほしかった。

そしてカレーを食べて帰った。

家事の意識を高める

気づくと部屋が散らかっている。いやずっと気づいてはいるのだがそのままにしてしまい、さらに散らかっていく。

いい機会なので家事について今一度考えてみると、それは三つの要素分けられるのではないか。まず意識、つまりこれくらいのレベルは維持したいよね、という綺麗さのレベルだ。私の部屋はいつも散らかっているが、かといっていわゆる汚部屋にはならない。ゴミは欠かさず出している。つまり私にもこれを超えるとやばいというボーダーラインがあり、それは一般的な人よりも低い位置だが、汚部屋よりは高い位置にある。

皆それぞれこのボーダーラインを越えないように掃除や家事をしている。このラインが極端に差がある人との共同生活は苦しいものになるだろう。

次に家事スキルがある。散らかった部屋を目の前にしてそれどう掃除するか、整理整頓するかというスキル。これも一朝一夕では身につかないが、本を読んだり、練習することでスキルは身につけることができる。

そして最後に実際に家事をやる実行力だ。家事は、だるい。ゲームの方が楽しいし、あるいは仕事でクタクタになって帰ってきたあとは、もう部屋が散らかっていようと関係ない、掃除なんて無理となる。意識もスキルもあるけど時間と体力が足りなくて部屋が散らかったままであるというのは、よくあることだし精神を蝕む。

この三つ、意識とスキルと実行力が揃わないと家事はできない。そして今の私に足りないのは意識である。かなり散らかっていてもまあいいかとなってしまう。ではどうやって意識を高めるかというと綺麗な部屋で生活する快適さを体に覚えさせるしかないのではないか。ということで今週末はひたすら掃除と片付けをしていた。

 

 

願い

最近見た映画はワンピースフィルムレッドとドラえもん空の理想郷で、どちらも今の世界がクソすぎるからもっといい世界を作ろうという悪役だった。今の子供はこんなの見て育ってるのかやばいなと思った。

 

世界を憎悪してる系の悪役で私の印象に残ってるのは幽遊白書の仙水だ。彼は人類の負の歴史がひたすら書いてある本を読んで世界を憎むようになったという設定だったが、ワンピースもドラえもんもそういう契機はなくて、普通に生きてて普通に世界を憎んだし、それは自然な感情でしょう、ただその二作品の悪役は、偶然にも世界を変える力を持っていたみたいな感じだ。

 

この、世界を憎む動機が30年くらいでガラッと変わったのかもしれない。ただ生きてただ世界を憎むことが、視聴者に共感をもたらす。

 

そして取り扱ってるテーマが、ワンピースは「配信者とリスナーの関係性」だ。これはかなり悪意を持って描かれている。リスナーによって過激化、先鋭化する配信者と、それをあっさり見限りるリスナーが醜く描かれている。

 

ドラえもんのテーマは生き方の多様性だった。両作品とも、テーマがめちゃくちゃ現代って感じがする。私が子供の頃の子供向け映画もこんなに社会派だったのだろうか? 

 

大人になってから子供向け作品を見て思うことは、製作者たちの次の世代への願いみたいなものがめちゃくちゃ込められてるなということだ。前世代のクソみたいな価値観を断ち切って、新しい考え方で新しい社会を作っていってほしいという願いが随所に見られる。それは登場人物を多国籍にするとかセクシャルマイノリティにするとかのわかりやすいものではなく、登場人物たちの言葉選びみたいな細かい部分で見られる。

 

 

 

 

美味しいカレーの作り方

検索すればなんでもわかる時代はもうとっくに終わっていて、今はなんなんだろうな、検索しなくても情報が流れ込んでくるので、そのなかから見るに値するものを選び取る、みたいな感じだな、それは倍速視聴とかもそう。

 

日記やブログを書く意味、みたいなものは考える。例えば私がここで、美味しいカレーの作り方を書いたところで、そんなものはもう腐るほどネットに転がっている。そこに私の稚拙なレシピを付け足す意味とは、とか。

 

昨日の午後はなんかもう色々疲れたので仕事を休んで銭湯に行ってた。大きな風呂が昔から好きなのだが、ここ数年はなんかサウナブームとかで銭湯が儲かってるっぽくて良い。

 

ベランダがあるが特に何にも使ってないので、掃除して木のタイルでも敷こうかと思って色々検索してみると、あのホームセンターでよく売ってるジョイントマット、ジョイントタイルは掃除がめんどくさい上に虫が湧くらしいのでやめた。

 

美味しいカレーのレシピを調べるときは、なるべく色々なサイトを見て、信頼度が高そうで美味しそうで、自分でも作れそうなやつを選ぶだろう、それは情報の有用性みたいなものを重視している。しかしそれとは別に、自分の好きな作家や映画監督や、あるいは配信者などが、カレーのレシピを書いていたら、それはそれで作ってみるんじゃないだろうか。もしくは友達から、お気に入りのカレーのレシピを教えてもらったらそれも作ってみようという気持ちになる。

 

あとこの人の文章や写真がなんとなく好きだなと思えるカレーのレシピにもたまに出会う。そういうものは、レシピの中身が平凡であっても、何度か訪れてそれを作ったりする。

 

だからきっと美味しいカレーのレシピを書くことは無駄ではない