日常的思考
日常は繰り返しだ。10代のころ私は、日常が繰り返されることをとても嫌った。日常が繰り返されるものであるという事への反抗としてよく学校をさぼっていた。
大人になってみると、日常は極めて忙しく、繰り返すことがもっとも効率的であり最適解であることがわかった。日常をいかにして繰り返してこなし、余暇の時間をつくるかということに執心している。
日常が繰り返されることの弊害は思考のパターンが制約されることだ。決まった時間に決まった場所で決まったことをしていると、似たようなことしか考えなくなる。それはそれは恐ろしいことで、単純に新しいものとの出会いがなくなるし、同じ事を何度も何度も何度も何度も考えることで一人エコーチェンバーみたいになって、その思考がどんどん強化され、ゆがんでいき、危険な状態へと至る。
旅行は、それが些細なものであっても、日常から身を引き離す。旅行中の、とくに退屈な時間というのはいつもと違うことを考えるし、それは新たな発見がある。そういった発見が無意識的に積み重なり、人生の決断のようなものへと発展していくのではないかと思っている。例えばちょっと数日実家に帰るだけでも、いつもと違うことを考えられて楽しいと感じる。そのためになるべくノートやキーボードを持ち歩くようにしている。
日常から離れるための旅行の条件としてはやはり泊まりであるべきだろう。日帰りはあまりにせわしない。そしてなるべく退屈であったほうがいい。楽しいことが目白押しで、宿に帰ったらすぐに寝るみたいな弾丸的な旅行はよくない。わたしは東南アジアとかで比較的安くて清潔なホテルを一週間ほどとって、だらだらするのが好きだ。まあいまはそういうことはなかなかできない。近場で、一泊二日の旅行とかをもうちょっと細かくしたほうがいいのかもしれない。いかにして日常から逃れるかを考えて生活していきたい。
日記を書く場所
日記を書く場所にいつも悩む、というか飽きっぽいのですぐになんか新しいものを試したくなるが、結局ある程度書いてるこのはてなブログで良いかとなる。
最近メンタルが良くなくて、何でだろうと考えてみたが、12月中旬くらいに風邪を引いて、そこからちょっとトラブルで仕事が忙しくなり、いままでやっていた食事制限と運動の習慣がなくなり、ストレスからか過食ぎみになり、そのまま年末に突入してだらだら食っちゃ寝しているという流れでメンタルが最悪になっている。
最近思うのだが、自発的に何かを考える必要がない。なぜなら生活において必要なことはある程度決まっていて、何事にも邪魔されずにルーチンをこなすのが最も効率的だからだ。生活に疑問を抱くと効率が落ちる。
仕事においてはいろいろと考えるべきことがたくさんあるが、それらは問題が設定されており、その解決を考えるというなんというか、自発的というよりは反射的な思考である。
というわけで何も考えずに生活するのがもしかしても最も効率が良いのではということに気づいた。しかしそれはストレスがすごいので、ストレス解消を用意しておかなければいけない。例えばコンテンツ消費だ。コンテンツ消費も正直もう消費しきれないくらい用意されていて、わたしは少ない余暇の時間で頑張って消費して、一つおわったら次と、めまぐるしい。
何も考えずに、労働と生活と消費だけをして生きていけるシステムができあがっている。そしてそうすることが、もっとも効率が良い。すごい。
生活と労働と消費
生活と労働と消費
一日が、生活と労働と消費で終わってしまう。労働が終わると生存に必要な家事などをして、残ったわずかな時間で消費活動をして寝る。そういう一日になっている。端的につらいし、資本主義に組み込まれている。
「よふかしのうた」で、人は一日に満足できないから夜更かしをするという台詞があり、なるほど確かにと思う。しかしひとつ間違っているのは、明日があるから夜更かしができないということだ。そして一日の不満足を消費で満たそうと試みる。youtube を見たり、twitter を見たり、つまり広告を見ることによって満たそうとする。
時間泥棒について思い出す。「モモ」に出てきた時間泥棒は、効率化をせまり、人々をせわしなく働かせて時間を盗んでいくというものだった。現実の時間泥棒はさらに洗練されていて、私たちの余暇の時間をすべて消費に向かわせることによって時間をさらに盗んでいく。
いや冷静になって、ソファに寝転がってぼーっと動画をみることが人間的な幸福なのだろうか? それは疲れ切っていて能動的に余暇を楽しむことができないから、もうただぼーっと安易な情報を摂取し続けることしかできない、という消極的選択で選ばれた行動な気がする、少なくとも私はそうだ。現代のサービスはそういうふうに最適化されている。とてつもなく雑ないいかたをすれば、私たちが疲れれば疲れるほど、広告を見てくれる。
日記を書かなければ、私の言葉は常に誰かに向かって発せられるものであり、私の思考は現実の何かへの反応である。そして一日は労働と生活と消費なので、私は終始それらに反応し続けることで一日を終える。そういうむなしさがある。 仕事でたくさんのことを考えるが、それもすべて仕事で必要だから考えているにすぎないことで、なんというか、反応的だ。ゲームに例えてみると、あるゲームでどの武器が強いかということを真剣に考えたりするし、それはゲームの攻略において有用だが、ゲームの外側では何の意味もない。 なるほど、それを考えることによって、論理的思考力のような能力はたしかに鍛えられる、しかしやはり意味のない問題に取り組み続けているという虚無はある。ゲームは楽しみのためにやっているが、仕事は単に苦痛だ。
この話は勉強意味ないじゃん論もそうだな。定期的に、因数分解なんて実生活で使わないという話があがって、それに対して勉強することで考える力がつく云々という反論があるが、因数分解つかわないということそのものには反論してないし、意味のない勉強をさせられているという子供の感覚は拭えないだろう。
私の一日は生活と労働と消費しかないし、私の思考もまたそれらの領域を出て行かないという、自己の破滅的な貧しさに直面する。
合理的な人間であれば行動を予測しやすいし、制御もしやすいが、現実の人々は合理的ではないのでうまくいかない、という問題への解決方法が、人々をたくさん働かせて疲れさせる、というものなのではないか。疲れて思考力が鈍れば、行動を誘導しやすくなる。時間をかけて凝った料理をつくるよりも、uber eats で注文した料理を食べながら広告をみてくれる人のほうが、資本主義的により好ましい。
問題は構造的なので、安易な解決はできない。明日から4時間しか働きませんというようなことはできない。ここにきて、日記を書くという1946年的な反抗が現れてくる。私を取り囲む構造の中で反応するのではなく、その構造そのものと外側について少しだけ考えてみる。意味は、ない。それは私を救わない。しかし虚しさに耐えられないから人は書くのだと思う。
おじさんがいた
鏡を見たらそこにおじさんがいた。すごいショックだった。運動不足で太ったし、最近は人とも会わないから髪の毛も髭もぼさぼさだし、そして服装も適当なので、なんというか、汚らしいおじさんがいた。
今週忙しくて、やっとまともな昼休みが取れたので古民家カフェでも行って気分転換しようかと思ったけど、そんなおしゃれなところに出没してはいけないおじさんがいた。
いやまあわかっていましたけど、もういい年だってことは。しかし現実から目を逸らしていた、具体的には体重を測らなかったり、ダボっとした服を着たりして現実から目を逸らしていた。あとたまにたらたらジョギングして自分を誤魔化していた。しかしふと現実はやってくるもので、逃げられないですね。
現実を直視して抗わなければいけないですね、なんというか、老いとかに。つらい。とりあえず美容室予約して、ジム検討するか、あと明日の朝早起きして運動しよう、やっていくか、つらいな。
労働をやめるための金
月曜の朝はいつもだるい。なぜわたしは働かなくてはならないのであろうとおもう。その理不尽さがいやだ。わたしは仕事が好きとか、好きな仕事とか、充実とか成長とか、そういうものを仕事にもとめないし、そういうもので何も満足しない。わたしは自由気ままに生きたいのであって、生存のためのあらゆる行為がいやである。
というと、家事と賃労働がおなじになるが、わたしは明らかに家事よりも賃労働が嫌いだ。賃労働における特殊な疎外性がある。
どうすれば働かなくてすむだろうと考えた時、そこにあるのは金だ。ともあれ金さえあれば働かなくてすむ。だからみんな金を稼ごうとしている。かつては金というのは富とか名声とかの象徴だったのかもしれない、現在ではみんな働きたくなさすぎて金をなんとかして稼ごうとしている。働かなくていいのならば慎ましい暮らしでもいいというふうなスタンスすらある。
そもそも労働にたいする絶望感がすごい。ブラック企業という言葉は一般的になり、どんなに割のいい仕事についても心身が潰されてしまえば人生が狂う。みんなブラック企業を引かないように、ブラック企業にいかざるをえない状況を避けるために必死になっている。そういう背景があり、数千万稼いで働かないで慎ましく暮らすという思想が流行っていて、少なくない人々がかなり投機的な投資をやっているらしい。
こういう、人々が労働を忌避して一発大もうけを狙う風潮は為政者からするとあんまり良くないんじゃないか、しかも投資の先は外国だし。
時間の使い方がまるでわからない
自分の時間がないとか偉そうなことを言っているのに、いざ時間ができると何をしていいのかわからない。やりたいゲームもたくさんあるけど、いざやるとなると何をやればいいのかわからない。最近はドラクエ11をなぜかやってるけど、それはそれで何だか時間が無駄なような気がしてしまう。
ゲームというとポインピーが面白い。ネットフリックスのゲームで、down well のもっぴんが作ったやつだ。極めて良質なスクロールアクションゲームとなっている、そう、こういうゲームがやりたかったんだって感じがする。
時間、時間を何に使うべきかわからなくて結局Twitterをやるとかになる。ネットフリックスで何を見るでもなくメニュー画面をスクロールし続けるように。膨大な量のコンテンツがあり、それらはサブスクでアクセスでき、そして私たちはもう生活と労働に疲れて考える力が失われている。結果として私たちは、何も考えずに広告を見続ける動物になってる。
Twitter、最近は投稿せずに漫然とタイムラインを眺めているが、特に何か楽しい物があるわけではない。
問題は思考する活力のような物が失われていることなのでは? 一日の仕事が終わると脳がぐったり疲れているのを感じる。何も考えたくないし何も判断したくなくなる。
どうすればいいんだ、とりあえず、なんというか、日記を書くか、こう、140字以上の文章を書くか、そう思って medium アプリを開いたら投稿機能が削除されており、はてなブログに投稿した。
なんかTwitterにしろmediumにしろ、何でもない個人の投稿はそんなに重要ではないということに気づき始めた気がする、それよりもインフルエンサーをみんなが見て、広告をたくさんみてくれる人の方が大切なんだろうとおもう。いやそれはそうなんだけど。
2022/04/10 自転車に乗る
実はロードバイクを持っているのだが、ここ数年はほとんど乗っていなかった。いろいろと忙しかったり体調を崩したり生活が変わったりしていて、自転車に乗る習慣が完全に途絶えていた。
それとは別にもう一台自転車があり、こちらはもっと気軽に、生活のためにほとんど毎日乗っていたが、ロードバイクのほうはビンディングペダルであり、なかなか気軽に乗れなくて、ついつい放置していた。 まあそれももったいないので、最近暖かくなってきたことだし少しずつ手入れをして、日常的にロードバイクに乗ろうというふうにやっている。
まず一年以上乗っていなかったが、タイヤの空気をいれると普通になめらかに動くのですごい。シマノの技術の高さがすごい。ビンディングは気軽さに欠けるので普通の靴でも漕げるようにするパーツを買ってきてつけた。スタンドもついてるほうが便利だろとおもって自転車屋に相談したら、スタンドを取り付けたところが傷になり、そこから錆びてしまうのでやめたほうがいいと言われたので素直に従った。私の自転車は鉄でできてるので塗装がはげるとすぐ錆びてしまうらしい。知らなかった。あと頑丈そうで長めのワイヤーロックも買った。
タイヤとかチェーンとかハンドルのテープとかも変えた方がいいんだろうけど、それは追々調べながらやっていこうとおもう。
最近は日中に30分くらいだらだら自転車に乗ってるが、やはり自転車はよい。静かでなめらかで速い。人間が作り出した乗り物で一番よいものだと思う。ラストワンマイルビークル、という言葉があり、つまり電車で目的地の最寄り駅までいって、駅から目的地までの1マイルを移動するための乗り物という意味らしい。つまり持ち運べて、手軽にちょっとだけ乗れる乗り物だ。わたしは定期的にこれを調べて、なにか新しいものはないかとか、試しにキックボードを買ってみたりもしたのだが、結局のところ自転車の圧倒的な快適さとエネルギー効率を思うとなにもかも微妙になる。
なるべく自転車に乗っていこうとおもう。しかし15分乗るだけで尻がいたくなるので「尻 痛くない サドル」がほしい。