ぴこはち

なんか外食がしたい気持ち。ここ2週間くらい徒歩10分圏内から出ていない。最寄りがコンビニではなくドラッグストアと酒屋なので、そこで主に食料を買っている。あとは宅配とかアマゾンとか。こう、プロの作った飯が食いたい。デリバリーとかも食ってるけど。

何年か前に pico-8 という、lua でゲームを作るやつを買ったなということを思い出したので、触って遊んでいた。手軽にかけて手軽に公開できる感じが良い。あとなんか全体的におしゃれ感がある。なんか8bitっぽいコンソール画面でコード書いたり実行したりするんだけど、補完とか一切ない環境でコードを書くのは修行っぽかった。とりあえず何かが動くやつを作った。専用サイトにアップロードするとブラウザでできる。

https://www.lexaloffle.com/bbs/?tid=37366

物語が足りない話

なんか物語が足りていないなと思って積んでいたオクトパストラベラーをやり始めたりした。生活には物語性がない。皿を洗ったり、洗濯物を干したりするのは場当たり的というか、刹那的というか、必要性しかない。例えば掃除が最たるものかと思うけど、それをやったところでまた汚れてまた掃除しなくてはならない。どこにもつながらず、また戻ってくる繰り返しの行為という感じがする。

私は労働においてもほとんど話をしないので、ある程度まとまった物語というか、論理というか、文章は本でしか摂取できない。Twitterの無秩序さと対比的に、出版された本というのはちゃんとした文章の書ける人がちゃんと推敲してちゃんと編集された文章がまとまっている。その圧倒的な秩序には安心感を覚える。

ゲーム。どうぶつの森とか Overwatch とか Apex とかを最近やってるけど、あれらはオンラインによって発生するドラマを楽しむ側面が強くて、確かに楽しいけど私の欲している物語ではないなと思う。少し前に流行ったウォーキングシミュレーター、例えば Gone home とかが、つまりナラティブゲームと呼ばれるものが私の求める秩序ある物語なのだろうと思う。

本を読むこと、特に哲学や思想の本を読むことの面白さというのは、その思想そのものは置いといて、著者による鮮やかな論理展開というが楽しいというのがある。それもやはり秩序ある物語だ。仮定された前提の上で成り立っている架空のお話であるという点も含めて。

オクトパストラベラーをやってみてどう思ったかというと、レベル上げだるいなと思った。RPGにはストーリー展開という物語要素と、レベル上げという成長要素があり、物語要素を抽出したのがナラティブゲームで、成長要素抽出したのが、例えばマインクラフトとかなのではないかと思った。それぞれのゲームで、それぞれの楽しさが高純度で得られるから、純度の低い複合的な JRPG は衰退したのかもしれないと思った。

通勤の消滅

精神がどれだけ振れ幅があるかみたいな、そう言うのは個人差があり、わたしは不安が強い。久しぶりに文章を書いている。書くという行為。

生活、つまりアーレント の言うところの労働はわたしの生命を消費しており、通勤は不自由だが不自由故に本を読むくらいしかやることがなく、本を読んでいた。それは逆説的に労働に抗うものとなっていたのだと気づいたのは通勤が消滅したからだ。

通勤がないことはこの上なく快適であるが、それは賃金労働と私生活の緩衝が取り払われたことになり、いよいよなにもかもが労働となりつつある。

8時間寝ることを鉄則とし、通勤中に読む本と、なんとか捻り出した作業時間に読書ノートを作ることが、わたしの人間らしさを保っていた。三ヶ月ほどかけてなんとか作った習慣は壊れてしまった。

結局のところやはり労働が悪なのだ。あと低気圧。

道楽と必需

以前に友人と話していたら、彼曰く、道楽にしか金を使いたくないらしい。つまり服は趣味なので10万のコートとか買うけどカーテンは買わない、みたいな。なるほどなあと思った。と、同時に、私はむしろ必需品の方が金をつかやすいし、使うなと思った。

必需品を買うことは楽しい。まず必要だから買っているので躊躇いや罪悪感がない。そして必要だから買っているので、必ず使用する(はずである)。道楽品はなるほど心を豊かにするが、必需品は生活を実質的に向上させる。私は今日も必需品を求めてAmazonをさまよう。

道楽品を必需品と言い張って買うパターン、とは。

そもそも金を使うことになんとなく罪悪感がある。罪悪感というか、不安感、のようなものだ。「もぎたてチンクルのばら色ルッピーランド」というゲームがあり、これは名作なので是非ともやってほしいのだけど、このゲームは金がすべてであり、パラメータは金だけである。金が体力であり、攻撃力であり、貨幣であり、人権である。よって金が尽きると主人公のチンクルは死ぬ。金を使うことの不安感はつまりこのゲームに端的に表されている。

あと私は教育の成果により、借金はよくないって思ってるんだけど、ここら辺も借金をうまく使える人とは金に対する認識の違いがあるのだろうなと思う。経営者、つまり資本家と話すと、労働者である私とはやはり金の認識が違うと感じる。私は金を、物と交換するためのものとして捉えている。それは貯めて減るものだ。なるべく貯めて、なるべく減らさないようにやっていっている。しかし彼らは金を、資本として捉えていて、それは回転させて利潤を得るみたいに考えているので、それが日常生活にも浸透しているなと感じる。

「ルッピーランド」は名作で、私たちの金への幻想を辛辣に表現していたが、それもやはり「貯めて減るもの」としての貨幣、「お小遣い」としての金であったのかなと思う。貨幣の恐ろしさは流動することによって商品を得られたり利益を得られたりすることなのだろう。

だらだら書く

だらだらと書いていくぞ。

非日常は疲れる。311の時も思ったけど、日常生活してるけど、非日常的というか、日常をとりまく状況が刻々と変わるというのがとてもストレスになる。思考のリソースを目の前のことだけでなく、周辺環境にとられるというようなことがずっと続くから。

fire tv stick を買った。マーベルの映画を観たくて、どうやらそれはディズニーのサブスクで配信してるっぽくて、それをテレビで見るためには fire tv stick が必要というふうな流れだ。しかし fire tv stick は人気らしくて、Amazonでも入荷待ちだし、メルカリなどでは定価以上で売っている。まあ別にすぐ欲しいわけでもないので注文して忘れていたら昨日届いた。以前にGoogleの似たようなやつを持っていたが、それよりもサクサク動くし良い感じだ。なんなら PS4Amazonプライムビデオアプリよりもサクサク動く。

時間術大全という本を読んだ。このほならら大全という名前はライフハック系の本で流行っているけど、この邦訳は失敗であるとおもう。著者はハイライトというものを提唱していて、それはつまり今日やりたい作業のことで、それを毎日設定して、それを実施するために時間を調節しようという感じで、その調節のためにライフハック的なものが書かれている。

ハイライト、というのはつまりタスクとかTODOなんだけど、これだけはやるぞ、特別だぞと宣言して実際に実施できるというのは満足感や達成感がある。認知行動療法で、一日の予定を立てて、達成を記録していくというのがあるけど、それと同じなのだと思う。認知行動療法のほうは自宅療養とかを想定しているのだろうか。実際にフルタイムで働きながら一日の予定をたててその通りにやっていくのは難しいし、記録のマメさが要求されるので、ハイライトで一つに絞るのは良いのだとおもう。

毎月やっている読書会が、コロナの影響で先月は潰れ、今月はオンラインでやった。わたしがレジュメをつくる番だったのだが、直前で急な出張が入り、しかもくそくそ忙しくて、合間を縫って資料作成が大変だった。労働はクソ。

天気がコロコロと変わる。天気がコロコロと変わると精神によくない。精神の良し悪しに合わせて生活を調整したいけど、そうはいかないのでそのギャップのようなものを埋めるのでつらい。どんなにしにたくとも人とは普通にコミュニケしないといけない。だるい。

社会性を取り戻した

最近はコロナの影響もあり引きこもっていて特に誰かに会うわけでもなく、どこかに遊びにいくでもなく暮らしていたので、休日はジャージで過ごしていたが、先日友人とピクニックしたら社会性だなと言う気分になり、昨日は久しぶりに洋服を着た。

ピクニックは良いですね。天気のいい日はなるべく外でご飯がたべたい。

ここ最近は note で書いていたのだけど、いつものように労働はクソというふうなことを書いていたら、似ている note みたいな感じで、仕事とは何か(キラキラ)みたいな記事をサジェストされて、うっかり読んでしまい死にました。

ミヒャエル・ハインリッヒの『資本論の新しい読み方』という本が面白い。2年くらい前に買って、もう3回くらい読んでるのだけど面白い。マルクスというと、なんだかイデオロギー臭かったり、胡散臭かったりするし、例えばネグリ=ハートとかは結構アクが強くて人に勧めづらいんだけど、この本は冷静に資本論を解説していて良い。この人の他の本も読んでみたいけど邦訳は出ていないようで残念だ。堀之内出版は頑張ってほしい。

あとこの本の翻訳者が著者にインタビューした記事がネットにあるけどこれも面白かった。

https://note.com/horipub/n/neb3d22d3f885 (https://note.com/horipub/n/neb3d22d3f885)

非日常のない日常

コロナ。猫も杓子もコロナというふうである。今日になって政府からのイベント等の自粛要請が出たらしく、バタバタと様々なイベントや公演が中止や延期になったらしい。そういったイベントを楽しみになんとか生きているという人は多くて、Twitterは阿鼻叫喚の様相を呈していた。私はというと完全に人ごとで、別に楽しみにしているイベントなどもなし、まあ別にいいかという感じだった。

しかしふと私は何を楽しみに生きているのだろうという気持ちになった。私の日常は完全に日常で、休日も早起きして家のことをやったりカフェに行ったり買い物をしたり図書館に行ったりしているうちに終わってしまう。

私の人生から楽しみが欠落しているのかもしれない。もっというと非日常とかが。そんな不安に駆られた日だった。