石鹸が好き

石鹸、結構好きだなとおもった。固形である、いつも剥き出しで置かれている、すべっとした実感、清潔感、使うとだんだん減っていく、「石けん」という語感と字面、などの要素が好きなのかもしれない。

見た目の清潔感と属性、機能としての清潔感が多分重要で、小学校の水道にあったみかんネットみたいなやつに入れられたひび割れた石鹸とかは好きではない。洗面所や風呂場にある白くてすべっとした石鹸が好きだ。

好きだけど特にこだわりはないので牛乳石鹸を使っている。液体のボディソープは使ってなくて、石鹸で顔も体も洗っている。髪の毛もこれで洗えたら楽でいいのになと思うがそれは無理らしい、試したことはない。

調べてみるとシャンプーバーという固形のシャンプーも存在しているらしい。プラスチックのボトルは風呂場で存在感あるしヌメヌメするので、固形シャンプーに置き換えてボトルを排除するとスッキリしていいかもしれない。

石鹸が好きなことは今まで気付いていなかった、しかし思い返してみると石鹸をもらうと嬉しいし、実家にいた頃はたまにもらってたのでわたしが率先して消費していたように思う。友達が泊まりに来たとき、ボディソープないの?と言われ、わたしは石鹸派だから、という会話をしたこともあるな、そういえば。

案外とわたし自身も気付いていないわたしの好きなものというのがまだあるのかもしれない。

本を買う日

合理的に考えて、本はなるべく電子書籍で買おうとここ数年はやってきたが、別に合理的に考えなくていいなとおもった。本なんてその時々で出会ったしかたで気分で買えばいい。

そもそも本は多すぎる。よくよく選んで買っていると何も買えなくなってしまう。なので最近はふらっと立ち寄った本屋で適当に本を買ったりしている。かといって街の鄙びた本屋(そんなものはもう絶滅危惧種だが)にいってもグッとくる本はない。

ここ数年は個人商店おしゃれ本屋ブームである。雑誌でもよく特集を組まれているし、実感として都内はそういう本屋がどんどん増えている気がする。都内を散歩しているとおしゃれ本屋に良く遭遇する。

以前はわたしは極めて合理的に本を買っていたので、そういう偶然巡り合った本屋というのを持て余していた。きゅうに本屋出てこられても何買っていいか分からんよという気持ちだった。しかしさっきも書いたように最近はわたしは情緒的に本を買っているで、適当に買ったりする。

今日はなんとなく本を買いたい気分だったのでおしゃれ本屋にいき、迷った挙句ヴァージニアウルフを買った。本を買いたい日というのがある。それは今日本を買うと、その本を見たときに今日のことをきっと思い出すだろうなというような日だ。べつに記念日とかではなく、そういう印象をもった日がたまにやってくる。

労働活動仕事

人と会うことがあまりないけど、人と会うと、定期的に人と合わなきゃなという気持ちになり、気持ちになるだけで特に何もしないという感じでずっといきている。

ところでアーレントは人間の条件を仕事と労働と活動を分けて考えて、仕事は耐久性のあるものを作ることで、活動は人と会って何かすることで、労働は労働という感じ。私たちが日々仕事と呼んでいるものは大体がアーレントにおける労働に分類される。家事も労働に分類される。とにかくみんな労働をやりまくる世界になってしまっている。

自発的に何か作ったり、自発的に人と会ったりしないと人生が全て労働で塗り潰されてしまう。かつては、かつてというのがいつなのかわからんけど、マルクス的に言えばたぶん前資本主義社会では活動と仕事の時間があったのかもしれないが、現代では兎にも角にも労働で、そのほかのことは労働外の時間で、しかも家事とかをこなしてからやれみたいな感じになっている。

とにかくそれは狂った社会なので一刻も早く権力構造を転覆すべきなのは自明なんだが、まあそれはそれとして現代においては自発的に活動と仕事をしていかないとなんだなと再確認した。

うらやむこと

ねむい。

何かを羨むのはつらいことだ。羨ましいという感情がつらくて不快なのでそんなことは感じていないように振る舞っている。あるいはポーズとしての、社交辞令的羨望を身につけた。

羨ましいという気持ちが発生しないように先手先手でやっていっている。それはあらゆる卓越したもの、成功したものに関して無関心であるということだ。自己を守るために何も感じないようになっていく。

よくないのかもしれないなと思う。ちゃんと羨んで生きた方がいいのかもしれない。羨ましいという感情に向き合ってみると何でもかんでも羨んでいるわけではないということがわかる。

カメラとか構造主義とか

朝、なんだか早くに目が覚めてしまったのでデスストランディングをやっていた。ストーリーはクリアしたし国道も完成したのでので配送をやっている。先日スパイダーマンのゲームがセールだったので買ったのだがなぜかまたデスストをやっている。戦いたくない気持ち。

カメラが修理から帰ってきたので写真を撮ったりしているが、SDカードリーダーが壊れていて、iPadにつなげるやつは見つからないので写真が取り出せないままでいる。

Youtube というのをわたしはほとんどみないのだが、それはいわゆるユーチューバー的なノリが嫌いだから。VLOG というのがあるということを最近知った。それはいわゆるユーチューバー的なものよりも緩い感じでつくる動画で、特に暮らし系の動画は人の顔が移ってなくて、料理を作る手とか綺麗な風景とかを編集したもので、まあ鼻につくといえばそうなんだけどわたしは丁寧な暮らしコンテンツ好きなのでこれは良いとおもった。

浅田彰の「構造と力」が床に落ちてたので読んでいる。おもったよりもエモいというか、めちゃくちゃにエモい。序文でこれから大学に入学する君へみたいな感じのことを書いてるのに、本文はとてもじゃないが入門ではないという感じだ。構造主義の空気が感じられる。よくわからないけど読んでいる。

意味のない夜更かし

意味もなく夜更かししてしまった。十分な睡眠に勝る活動などないのに、人はなぜ夜更かししてしまうのか。インターネットは恐ろしい。

必要に迫られる夜更かしはまあ仕方ないと言う気がする。ドラマやアニメや本が辞められないというのもまあわかる。しかしなんとなくインターネットで夜更かしは無意味さがある。

わたしはいわゆるガチャ課金というものをやったことがない。ついつい熱くなって何万も課金してしまうという話はよく聞くが、なんでそんなことになるのか皆目見当がつかない。しかしそれは夜中に始めたインターネットのようなものなのかもしれない、それならわかる、多分違うだろうな。

新幹線に乗ると、車両の入り口の上に一行の液晶モニタみたいなやつがついてて、ニュースやお知らせが流れている。やることもないので眺めていると、なんだか暗いニュースばかり流れていて気が滅入る。

インターネットも暗い話ばかりで気分が悪くなるが、それらは絶妙に感情を刺激してきて、心が適度に揺さぶられるのでそういう心地よさや心地悪さはある。そういうのが中毒性があるのかもしれない。結局のところ情報なんて得てなくて、感情の揺らぎのようなものだけがある。

穏やかな日々

カミュの『異邦人』について考えたんだけどうまくまとまらなかった。わたしはやはりあの小説が好きだなと思う。わたしはシンクレールやデミアンのようになりたかったけどそれは無理だった、最近は、ムルソーへの共感が年々強くなっていく。

クラムチャウダーを作ろうと思ってあさりを買ってきたがうまく塩抜きができず、結局夕飯には間に合わなかった。あさりは塩分濃度を調整して、冷蔵庫に入れておいたら活発に水を吹いていた。そのまま明日まで放置するのもあれだなと思ったので11時半くらいからおもむろにクラムチャウダーを作り始めた。

ちなみにあさりは冷凍保存できるらしい。『昨日なに食べた』でいってた。

日々は穏やかだ。わたしの人生は、特になにがあったわけでもないし、なにを成したわけでもないが、いつも不安と焦りと焦燥感に満ちていた、あと自意識。ここ一年くらいはとても穏やかな気がする。

かつては歳を取ることや大人になることが怖かったが、実際には年々新しいことを学び、自分や世界について知っていくので、歳を取るほど楽になっていく気はする。

今日ポッドキャストを聞いていて、わたしもやりたいかもと思ったが、それにはもう少し自意識をあれしないとなと思った。文章は推敲できるが発話は推敲できないというのが面白そうではある。このブログは推敲なんてしてないけど。