映画と他者

他者の存在をつい忘れてしまう。いや、各所で他者とは触れ合うのでもちろん他者というものがいるということはわかっているのだが、その他者が、私と同じように何かを考え、私とは全く違う生活をしているということを忘れてしまう。他者というものがその場その場で発生する人権的現象のように感じてしまう。それは尊重すべきもので、失礼のないように、もとい、めんどくさいことが起きないように振る舞うのだが、他者が、奥行きと連続性を持って存在し続けているということを忘れてしまう。

映画を見ると、それを思い出す。あ、他者、存在しているって。存在しているし、存在し続けている。今も。映画というはそういう、奥行きと連続性を表現できるなと思った。歴史的記述はではそれができない。記述は散発的で、各個人が記述と記述の間を想像しなければ、統一した人物にならないし、逆いうとその想像の結果が映画になったりする。