日常を取り戻せ

このブログは日記なので、なるべく何も考えずに、何も準備せずに推敲とかもせずにやっていっているので、込み入ったことを書こうとするとすぐにぐちゃっとなってしまう。今朝もブログを書いていたのだけど、最近よく聞く、「日常を取り戻す」というフレーズに何か気持ち悪さを感じるということについて書いていたら、これは今置かれている立場によって受け取り方がすごい変わるセンシティブなやつだなと思って、書くのをやめた。

そうやってややこしいことを考える力が減っていく。

社会がぶっ壊れて欲しいということを心のどこかで常に思っている。生まれた時から不公平で、それをひっくり返すのは個人の力では無理で、いったんリセットがかかれば不公平さが解消される契機になるのではみたいな、素朴な気持ちがある。

でも多分これは間違っていて、まず私自身が、どちらかというと不公平さによって利益を得ている。社会が壊れるとその利益を失うし、そもそも人間は弱いので社会が壊れると生存能力の大半を失う。 そしてアポカリプティックな出来事は次の社会への契機にはならない。なぜならばみんな「日常を取り戻そう」とするからだ。失われたものの再生物語に人間はよわい。失われたものは失われているが故により良く見えてしまう。その呪いはずっとずっと続く。

「次」よりも「かつて」を選んでしまう。いろんな人がいるだろうけど、災禍によって「取り戻す」方向の世論が強くなるんじゃないだろうかと思う。

あとそもそも生活が不安定になると他人のことを考えている余裕がなくなるし、多様性とかを犠牲にしてとりあえず生存しないととなる。

今回の件を利用して、何かをひっくり返そうという、そういう雰囲気というか、気持ちを、各所に何となく感じたり感じなかったりするけど、そういうのは多分間違っているのだろうと思う。ともかく社会と生活がなければ次の社会について考えることはできないんじゃないだろうか。

いやそりゃ、革命を煽るみたいな目的なら、追い詰められた民衆を蜂起させるみたいな、なんかそういうあれもあるのかもだけど、違うじゃないですか、現代、私は別に社会に何か明確なビジョンがあるわけではないけど、なんか違う気がする。つまりスクラップアンドビルドって割と幻想なのではって最近思う。共通の敵が現れると強力し合うというのが幻想であるように。