救済を求めながら本を読むことについて

本を読む時に、そこに救済やその可能性について求めながら読んでしまう。今日はピーター・シンガーの「私たちはどう生きるべきか」という本を読んでいた。シンガーは左派というものについて、世界の不平等を知ったときそれを仕方のないことだと思わないでどうにかしようと行動する人間こそが左派であると別の本で書いていた。この「私たちはどう生きるべきか」というのも、つまりそういう本で、つまりみんながみんなのことや地球のことや動物のことを考えて倫理的に生きてくれよなっていう啓蒙を目的としている。 倫理的に生きることに対置されているのが個人の利益至上主義であり、これの欠点が、つまり個人の利益のみに固執することのデメリットがいくつも挙げられている。そのなかで生きがいとか人生の意味のような話があり、ざっくり言うと人間という生き物は個人を超えた大きな偉大なものに貢献することによって人生に意味を見出すというようなことが書いてある。もちろんそれは盲目的な崇拝になってはいけないので、そういうのは民族浄化とかを引き起こすので、みんなが理性を働かせて宇宙的視点から物事を考えようと努めて倫理的に生きてくれよなっていう感じだ。

私はここを読んでいるときに、なんというか救済の可能性とか誘惑のようなものを感じた。

ネグリ=ハート もちょっと似たことを言っていて、いわゆるリベラルとか左派の人たちは伝統的社会に対抗するためにいきすぎた個人主義のようになってしまって、社会的なつながりのようなものが希薄になっていて、これは人生の意味とかをよくわからないものにしてしまうし、なによりも伝統によって強い結束を持った右派に立ち向かうことができないので、社会的つながりをとりもどしていこうぜ、マルチチュードという形で。みたいなことを書いていた。

少し前に流行ったアドラーも、人類全体という共同体意識のもとに、もっとも巨大な共同体に貢献できるように行動しようみたいなことを言っていた。

「現代カトリシズムの思想」という本も最近読んだ。それはカトリシズムと哲学の関係とか、カトリシズムが現代の問題にどう関わっていけるかなどをまとめた新書だ。仔細な内容はともかくとして、カトリシズムの根底にある進行や共通善というものは強固でうらやましく思えた。 救済の話に戻るが、わたしは救済を探して本を読んでいるのだなと思った。救済というのは一切合切まるっと救われることだ。だからこういう大きなものや確かなものが現れると、それにどうしようもなく誘惑されてしまう。キルケゴールが絶望を分類したときも、カミュが自殺すべきかを論じるときも、わたしはその果てに救済を期待する。この難解な論をじっくり追っていけば最後には確かなものにたどり着き、それを携えればこれから先も確かに生きていけるのだろうと愚かにも期待している。

しかしそれは間違いなのだろうと思う。そういう到達可能な救済の匂いを嗅ぎつけるような本の読み方は間違いなのだろうなと思う。なるほどそれは字面を追うと救済っぽいが蓋を開けてみるとそんなことはない。例えばシンガーは、倫理的な生き方について、間違うこともあるだろうけど何がみんなにとっての利益となるのかを常に考え続けなければならないと言う。カトリシズムの思想も、信じるものは救われるというようなものではなくて、信仰から出発して日々やっていきましょうという感じで、いますごい濁したけどつまり何が言いたいかというと、それらは到達の思想ではなくて前進の思想なんだ。そういう前進し続けるための思想を、私はどこかに到達してそこに落ち着こうとして読んでいて、つまりこれが救済を探して読んでいるということなのだけど、そのギャップがすごいなっておもった。このギャップがある限りわたしは本を読んでどこかに到達したような気持ちになって一時的に高揚するけど現実には何も変わってなくて苦しみ続けるみたいなことが続くのだろうとおもった。

すべてからまるっと一発で救われるようなものはたぶんない。死ぬことを除いて。死ぬことだけは到達の思想だ。日々やってくる不安や強迫やストレスやつらみや諸々のもの、それらを根こそぎに解決してくれるようなものはない、金はかなり有力だけど残念ながらそれすらも多分違う。例えば不安はその不安が予測していることを明確にして、それがどれほど馬鹿馬鹿しい予測なのかをひとつひとつ自分で検証していくというふうに、個別に対処していく。これは前進だ。どこにも到達できないことは前進しない言い訳にはならない残念だけど。生きることはつらい。そういうことを考えていたらうわーってなったのでブログを書いた。