ホラー

ホラー映画を見ないし、ホラーゲームをやらない。なぜならば怖いからだ。先日ブログに書いたデッドバイデイライトも、ホラーっぽい雰囲気が怖くて、買ってからしばらく放置していた。ブラッドボーンは早くこの悪夢が終わってくれという気持ちでクリアした。

先日コンジアムという韓国のホラー映画を見た。ウェーイみたいな若者たちが心霊スポットにって散々な目に遭うって感じのやつで、すごい怖くて怖かった。90分くらいの短い映画なのだけど、密度が高くて、見終わった後に満足感を感じた。

なんなんだろうな、ホラー映画って。多分それはジェットコースターのようなもので、いやわたしは絶叫マシンも怖いから乗らないのでやっぱりその例えではわからないのだけど、感情を色々な方向に押し広げられることによる適度な疲労と満足感のようなものを感じた。

後多分人を怖がらせる手法って多分もう出尽くした感あって、それをどうやって組み合わせて構成するかみたいな、技巧的なレベルの高さも感じた。

最近映画を見ていて思うんだけど、どのジャンルにもベーシックな物語構造と手法があり、それらを裏切ったりパロディにすることによってバリエーションがあり、面白い映画というのはそういうものをめちゃくちゃ上手く組み合わせているなと思う。そもそも基本的な物語の展開をしてくれないと受け手は物語を理解できないけど、それだけだとつまらないので、わかりやすくて面白いみたいという作品はそのバランスがすごい、と思う。

ゲームのストレスデザインの話、Dead by Daylight

デッドバイデイライトというゲームを最近やっている。以前にセールで買って、そのまま放置してたけど、最近またやり始めておもしろいということに気づいた。そもそもホラーっぽい雰囲気が苦手だからやってなかった。

生存者4人のチーム対殺人鬼1人という構図で、逃げ切れば生存者の勝ち、全員殺せば殺人鬼の勝ちという鬼ごっこをする。

ところで昨今のオンライン対戦ゲームにはほぼ必ずランクというものが存在し、それはプレイヤーの腕前の数値化であり、同じくらいのランクの人がマッチングするようになっている。大体どんなゲームでもそうなっている。自然と、自分のランクを上げることが、オンライン対戦の大きな目的の一つとなる。ランクが上がれば嬉しいし、下がるとつらい。

ランクは、まあ当たり前だが勝敗で決定する。勝てば上がるし負ければ下がる。それはシンプルでわかりやすいのだが、弊害もあり、たとえばスプラトゥーンオーバーウォッチなどのチーム戦のゲームだと、仲間が弱ければ自分がどんなに頑張っても負ける。そうすると、事実はどうあれ仲間がクソだったから負けたという気持ちがのこり、ストレスが溜まり、そういったゲームは「仲間ガチャ」と揶揄されたりする。まあ、冷静に考えれば仲間はランダムで選ばれているので、誰しも同じ条件なので、対戦を繰り返せば収束していって実力のランクに収まるはずなのだが。

仲間ガチャ問題を抜きにしても、勝ってランクを上げるというのはつらいものがある。勝ち越さなければいけないからだ。10回やったら6回勝たなければならない。負けるたびにじわじわとランクが削られていくのはすごいストレスだし、これはやった人しかわからない。オーバーウォッチでは、ランクの数値がくるくるとカウントアップしていく演出があるのだが、負けた時はカウントダウンの演出はなく、下がった後の現在のランク数値がそっと表示されるだけになっている。ここら辺も、自分のランクが下がっていくのを見せつけられるのはつらいという配慮なのだろうと思う。

こんなにストレスフルなランクだが、上がればすごい嬉しいのでモチベーションになるし、そもそも同じくらいの上手さの人と対戦しないとつまらないのでマッチングのためにどうしても必要なので、まあなくすことはできない。

というランクの話を一通りしたところでデッドバイデイライトの話に戻すが、このゲームのもランクがもちろんあるが、勝敗で評価されない。評価の対象は勝利への貢献度で、具体的には発電機をどれくらい直した(脱出のためにまず発電機を直す必要がある)とか、殺人鬼からたくさん逃げ回ったとか、仲間を助けたとかで評価されてランクが上下する。そられは勝つために必要な要素なのだが、最終的に負けてしまっても、たくさん貢献していればランクは上がったりする。

この方式はストレスがなくてとても良いなと思う。仲間がクソでも、頑張って助けて、できるだけ発電機を直せば良い。そして自分がクソでも同様だ。まあわたしが低ランクなので、もっとランクが上がるとまた別の様相を呈してくるのかもしれないけれど。

あと、このゲームは難しいので基本的に負ける。殺人鬼に見つかるとまず逃げ切ることはできず、時間を稼ぐことしかできない。この基本的に負けるというのも良い。負けて当たり前、勝ってラッキー、負けても仕方ない、負けてもストレスがあまりない。これは生存者 vs 殺人鬼という非対称性によって成り立っている。

負けて当たり前というデザインは、数年前から流行っているバトルロワイヤル系のゲームもそうだ。あれもプレイヤーが100人いて、勝てる(生き残る)のは1人だ(まあ実際はチームでやることが多いけど)。99人は負けるので、大体負ける。負けて当たり前だし、勝って最後の1人になれた時の嬉しさはすごい。あれも負けることをストレスにしないデザインなのだと思う。

オンライン対戦ゲーム、特にFPSとかは敗北の大きなストレスと勝利の多幸感というのが中毒性の一つの要素だったのかもしれないと思う。イライラしてコントローラを投げつけるというのはよくある話だ。でも最近はランクの評価システムや、ルールの非対称性によって負けのストレスを抑制するというゲームが結構出ていて、これからはそういう時代になっていくのだと思う。

つらみの言語化

これはここ数年ずっと思ってること何だけど、自分のつらさが言語化できない。その時々に様々つらさがあり、それらに共通する普遍性のようなものもあり、それを掴もうとしたり、解決しようとしたりはしているんだけど、その日々感じているつらさを、何か言葉にして表すことができない。

たとえば詩人とか歌人とか、言葉を扱うことを専門とする人たちは、こういう問題についてもっと上手く解決できるのかなと思ったりする。どうなんだろう。そういう人たちは、自己のつらさについて、わたしよりも鮮明に捉えて、それを他者に伝えることができるのかもしれない。

つらさの直接的な原因は私生活なのだから、それを克明に書くことによってつらさを表現できるのかもしれない。でもわたしは拗らせているので私生活についてオープンにしない。なんなら友人にもそれぞれにそれぞれの嘘をついていたりするので裏を取られるとめんどかったりもする。

つらさを言語化していく作業の中で、わたしのつらさがとても平凡なものであるということが判明するのが嫌というのもある。これも拗らせであるなと思う。

お前は恵まれている、という呪いの言葉を受けている。いつどこで誰に刻まれたのかわからないが。私生活について話したり、つらさを詳細に伝えたりすると、この呪いの言葉が発動するんじゃないかと恐れている。

無気力と闘っている

自分が取り組んでいることに対して、何か少しでも嫌なことがあると、いやそもそもやる気ないし、意味もないし、もうなんか全て嫌だ、という気持ちになり、何もかもひっくり返して無気力状態になる、という現象と闘う日々。

自分が能動的にやっている活動ならばまだよくて、それは自分で始めたことだし、まあいろいろな感情はあるが少なくとも好きでやっていることなので仕方ないがんばるかというふうになるが、賃金労働は生存のための消極的選択なのですぐに無気力になる。

別に無気力でいいとは思うのだが、わたしの精神状態はどうあれやることはあまり変わらないので、精神が悪化するとそれだけ損している気もする。

無気力は消極的な服従でもある。労働環境を良くしたり、より労働環境の良い職場へ移ったりすることは能動的な意思が必要であり、無気力からはなかなか生まれない。日々というものは、生活にしろ労働にしろ、それを維持することでいっぱいいっぱいで、小さな改良はできるけど大きく根本から変えようとするのは難しい。

大きく変えようとするのが難しいというのは、まず心理的な問題で、日々のルーチンをこなしながらその外側や理想を想像するというのが厳しい。キャパシティ的にも厳しいし、理想について考えると現状を否定されたような気持ちが発生するため無意識で避けている気もする。

それがクリアできると、遷移したい状態への現実的なステップを考えなきゃだし、これは本当に難しいし、時間もかかる。さらにそれを実行するとなると気が遠くなる。日々の忙しさや様々な不条理はわたしを無気力にさせ、社会に服従させているのだという陰謀論は現状認識としてはあながち間違いではない。陰謀が存在するかどうかは置いといて。

1984年』で、主人公が自宅についている監視カメラの死角でこっそり日記を書くシーンというのがあった。あれを読んだとき、ディストピア社会においては、日記を書いて自分で物事を考えることが反逆や抵抗の第一歩となるのだな、秀逸な演出だなと思ったが、あれはディストピアどうこうではなく、現実の世界の話だったのだ。実際に、日々の中でものを考える時間などない。

わたしが考えることといえば、仕事のことや生活のこと。仕事上のある課題をどうやって解決しようかとか、そろそろ選択しなきゃなとか、そういう、「内側」のことばかりである。本を読むと、そのこ秩序があることに驚きと安心を感じる。それは論理に従って書かれており、外側へ至ろうとしている。資本主義の外側、認識の外側、存在の外側へ。対してわたしの日々の考え事には論理はなく、ただ問題を適切に処理するというものである。そこにおける上達とは、よくわからないけどどんどん速くソリティアが解けるようになっていくのと同じだ。思考が労働に最適化してしまうことが恐ろしい。

だから日記を書くということ、本を読むということ、外側について思考を巡らすことは、現代においても十分に反逆的行為なのだ。

気が狂う

なんか先週くらいからブログを書こうと思って何かしら書き始めるんだけど1000字くらい書いてやっぱダメだってなってやめるみたいなことがよく起こってる。なんかちょっと真面目なこととかちゃんと考えて何か書こうとすると、こうやってなんとなく書いてくやり方ではダメっぽい。

でもそういうのは、ちゃんと頑張って書いて形にしたほうがいいと思うんだけど、わたしには根気がない。

日々が忙しく、いわゆる作業時間が一日1時間くらいしか取れない。その1時間くらいを一体何に使うのか、わたしは何をすべきなのかわからない。今はカントを読んでいるので、カントに結構時間を取られる。そのせいで今年に入ってから頑張って読んでいたマルクス関連の本が全然読めていない。

人生がもっとマシになるような何かしらのスキルのようなものを身につけるのに時間を割くべきなのだろうか。あるいは運動をすべきなのだろうか。一日一時間の作業時間だって、毎日ちゃんと取れるわけではなく、それは多忙のせいというよりも自制心と習慣の問題で、ちょっとぼーっとしたりゲームをしたりすると何もできなくなる。

それに伴って安らぎの時間というのもほとんど取れなくなっている。今年はコロナのせいでお出かけやらカフェに行くのやらもかなり不自由になるだろうと見込んで外遊びグッズを色々買ったのだが、結局長い梅雨からの灼熱の夏で外遊びも実質できていない。いやまじで、死みたいな世界じゃん、夏。

以前はストレスが溜まってきたら銭湯に行くなどをしていたのだが、それもままならない。意外とダメージを受けている。といっても生活がままならなくなるほどではなく、じわじわって感じなのだが。

せめて日中の温度が30度くらいになってくれればまだやりようがあるのに、38度とかバカでしょう。

そんなこんなで気が狂いそうだったので今日はカフェに逃げてきた。最初に行ったスタバは時短営業だったので別のカフェにきた。でもこんな遅くまで店が営業しているべきではないとも思う。夜の避難所が欲しい気持ちもある。

生きているとどんどん不安になる。変化について考えるとき、わたしはまず失うものを数える。失ったとき初めて気づくというクソみたいなトラップも存在する。何もかもあほらしい。

一切に価値はないということについて考えると救われるような気持ちになる。何かに価値があるよりも何にも価値がないほうがずっといい。

来る

映画「来る」を見た。伊集院がラジオで前に喋っていて、おもしろい構成の映画だとか言っていた気がするが、なるほど確かに野心的な作品であった。ネタバレ? ネタバレするかも。いや野心的な作品だからこそ前情報なしで見たほうがいいのだろう。でも別に見るべき映画ではない。

ホラー映画の文脈というのがよく分からない。ホラー映画の文法とか、文脈とかを借用して実質怪獣映画みたいな、そういう手法が一般的になってきている気がする。ジャンルそのものがパロディになりつつあるというか、ここらへんがうまく自分でも把握することができないので、誰か詳しい人にホラー映画の変遷とか手法について体系的に解説してほしいという気持ちになる。

「来る」は、なるほど確かに良くできた映画だったのだけど、特に観た後に残るものがないなと感じた。エンターテイメントとしてそれは正解なのかもしれないが、物足りないと感じてしまう。テーマとして親のエゴが取り上げられていたのだけど、それも何か主張したいものがあるわけではなく、テーマもまた一つの舞台装置で、親のエゴによって生じた事件が親のエゴによって解決されるという趣意返し的な構造のためだけにテーマが存在していたように思う。

観終わった後に、なぜかそのまま「逃げ恥」の一話を観始めたんだけど、そうやってすぐに別の作品を観られるのも心に残るもののなさ故にという感じがする。なんかdisってるっぽいな。いや面白かったよ。

最近やったゲームでいうと、「フィンチ家の屋敷で起きた奇妙なこと」というゲームが面白くて、あれは終わった後に少なくともその日は別のゲームをやる気が起きなくて、あれはなんだったんだろうと思い返しながら眠りについた。そういう余韻のようなものが欲しい。

今日も支離が滅裂した日記を書いてしまった。別にわたしの日常を書くのなら滅裂していていいのだけど、特定の作品についてあまりにも雑に語るとその作品への敬意を欠いているような気がしてしまってよくないな。でもせっかく書いたから公開してしまおう。

映画と他者

他者の存在をつい忘れてしまう。いや、各所で他者とは触れ合うのでもちろん他者というものがいるということはわかっているのだが、その他者が、私と同じように何かを考え、私とは全く違う生活をしているということを忘れてしまう。他者というものがその場その場で発生する人権的現象のように感じてしまう。それは尊重すべきもので、失礼のないように、もとい、めんどくさいことが起きないように振る舞うのだが、他者が、奥行きと連続性を持って存在し続けているということを忘れてしまう。

映画を見ると、それを思い出す。あ、他者、存在しているって。存在しているし、存在し続けている。今も。映画というはそういう、奥行きと連続性を表現できるなと思った。歴史的記述はではそれができない。記述は散発的で、各個人が記述と記述の間を想像しなければ、統一した人物にならないし、逆いうとその想像の結果が映画になったりする。