DEATH STRANDING

めっきりブログを書く習慣がなくなってしまっていた。生活習慣がちょっと変わってしまって、うまく時間がとれないというか、なんというか、有り体に言うと、今まで本を読んだりブログを書いたり読書ノートを作っていた時間がデスストランディングにとられてしまっている。

デスストランディングは面白い。ここ数年で一番かもしれない。わたしは象徴的要素がうまいこと噛み合っているしゃらくさい作品を好む。TRIGGREのアニメが好きなのもそれが大きな理由だとおもう。デスストはそういった意味でも凄く良い。好みだ。対消滅したい。

PS4にたしかトゥモローワールド?とかいう名前の free to play のゲームがあって、それはみんなで労働をするという共産的発想で社会をつくっていこうというオンラインゲームだったのだけど、あれが目指すところもある種デスストに似ているのだとおもった。しかし小島秀夫はおもしろゲームをつくるパワーが強すぎて、とにかくデスストはおもしろい。宅配ゲームというクソつまんなそうなコンセプトをここまでおもしろいゲームに仕立てられるのは彼だけだろうし、ここまで象徴的要素をてんこ盛りしてプレイヤーにどストレートなメッセージを届けられるのも彼だけだろう。とにかくおもしろいんだ、だからやってくれ、ゲームはプレイしないと意味がない。ゲームの批評を読んだりプレイ動画とか実況をみたりするのはそれもやはりゲームだけど、ゲームをプレイしたときに発生する独特の感覚や感情、それこそがゲームがゲームであるが意味だとおもうんだ、だからプレイしてくれ、デスストはプレイすべきゲームだ。

ゲームはだいたいがクソだが、たまにゲームを好きでいてよかったと思えるようなゲームが出てくる。だからまだゲームが好きだ。

よくわからない夜がきた

最近は早寝早起きだったので夜を避けて生活することができていた。しかしふと思い返せば、人生の半分は夜であり、そしてよくわからない夜との戦いだった。

明日がきてほしくなかったり、眠るのがもったいなかったりでなんとなく起きてしまう、寝られない、そして何か生産的なことをするでもなくだらだらと更かしてしまう夜だ。なんのことはないありきたりな夜だが、それでも気が狂いそうになる。

よくわからない夜に捕まってしまうともうなにもできなくなる。早く寝た方がいいし、起きているならたとえば本を読んだり映画をみたりしたほうがまだ有意義であるのに、そういったこともできなくなって、ただ起きている。

そういう時間が嫌でたまらなくて、お茶をいれてみたり、音楽をかけてみたりもしたけれど、うまくいかなかった。結局効いたのは早寝早起きの週間で、夜を眠ってやりすごすことだった。ということについ最近気づいた。夜は起きていてもろくなことがない。

そうはいっても眠れないということがある。だいたいにおいて、明日なんてきてほしくない。眠ってしまったらもう目覚めたくない。明日がきてしまったことを認めたくない。そういうものなので、早寝早起きができている私は今幸せなのかもしれない。

人と喋る

 人とあまり喋らないのでたまに喋るととても疲れる。労働においてはわたしはひとりで黙々とやる感じなので、一言も喋らない日もあるくらいだ。なんなら一言も日本語を書かない日もあるかもしれない。

プライベートの社交も、なんというか、こう、付き合い的なものはほとんどなくて、気の合う人とたまに遊ぶというくらいだ。わたしの生活には全般的に、社交的な会話が少ないのかもしれない。というか自分のそういう特性をよく知っているのでこういう生活に落ち着いた。

だから、たまに社交的な会話があるととても疲れる。とてもだ。とても疲れるんだ。そういう日だった。

ラーメンを食べたいとおもった。そんなことは滅多に思わないのだが今日は思った。結構気に入っていたラーメン屋に久しぶりに行った。気に入っていたといってもそもそもわたしはラーメンを食べないので三回くらい行ったことがある程度だ。700いくらかだった気がするのだが、八百円になっていた。百円でチャーシュー追加のトッピングをいれた。

ラーメンを食べ終わると、いつも微妙な不満足さがのこる。ラーメンというのはあまりうまい食べ物ではないとおもう。九百円払うなら定食を食べた方がいい。随分な言いようだな。

22時に寝て6時に起きる生活は案外と続いている。もう一週間以上経ったろうか。飲んできたりしてねるのがおそくなる日は無理をしないのだが、それでも一応6時台に目が覚める。習慣になりつつある。

最近は1日ごとに起きた時の気温が下がっていく気がする。だんだんとおきるのがつらくなってくるとともに人生も辛くなってくる。

iPhoneBluetoothキーボード、微妙に入力がもたつくのがいらいらするな。

排水管の掃除

洗面所の排水管がつまってしまった。普段なら液体パイプクリーナーでなんとかなるのだが、今回はどうにもならない。なにか専用の器具を買う必要があるのかもなと思いながらネットで調べてみると、排水管のU字の部分を取り外して洗うと良いと書いてあった。やってみるとU字パイプは簡単に外れて、掃除をして再度取り付けるとつまりは治った。15分くらいだった。

よく見ると、U字パイプのUのカーブの底部分にバルブのようなものがついていて、パイプそのものを外さなくても、そのバルブを開ければ掃除ができるようだった。メンテンナンス性が高い。

ところで排水管そのものがぐらぐらだったので持ち上げてみると床から抜けてしまった。つまりよくわからないのだけど、洗面所の排水はそのまま床下の地面に流しているということだろうか? 雑なシステムだ。この家に住むのが嫌になってきた。

ものするひと

『ものするひと』がいつの間にか完結しているということを聞いたので、買った。2巻まで持っていて、3巻で完結ということだった。もうちょっと続くのかなと思っていた。案の定、どんな話だったか完全に忘れていたので1巻から読み直した。基本的に主人公のスギウラの視点で、彼のモノローグを中心に話が進むのだが、スギウラは、なんというかあちらがわの人間で、共感も理解もあまりできない。小説を書くのに苦しいと感じたことはなく、書きたいから書いていたら賞をとって小説家になった、小説家になることへの不安はあったが、書けなくなってしまうことへの恐怖のほうが大きかった、いったいぜんたい何を言っているのかわからないとわたしは感じる。実際にこんな友人がいたら、楽しく遊びながらも嫉妬と羨望で頭がおかしくなってしまうだろう。

マルヒラはスギウラと遊ぶけど、スギウラを尊敬し、才能あるひとへの引け目や、翻って自分の何者でもなさへのコンプレックスなど感じている。彼にわたしは共感する。

漫画を読んでいるとたまに不思議な気持ちになる。『ものするひと』はそういう漫画だった。私の日常というものが存在して、それは私にとっては見飽きたもだ。しかしそれを別の視点からまったくちがう仕方で感じている人間がいる、ということを思い知らされるような。毎日膨大な量の他人を見るけれど、それはオブジェクトでしかなくて、人間でない。漫画は人間を描ける。

『ものするひと』は、スギウラがどういうふうに世界を眺めているかを3巻にわたって丁寧に書いた作品だったとおもう。作品のなかの様々な事件は、たまたま起きたといってもいいし、何も起きなくても良かった気もする。だからずっと続きそうな気がしたのかもしれない。

不思議な気持ち、それは日常の可能性の広がりのようなものの気もする。日常はつねに行き詰まっているが、作品によってそうではない可能性が見る、みたいな。それはべつにわたしも何者かになれるぞ! みたいなものではなくて、もっとささやかな、別の日常、日常への彩りの可能性のようなもの。

できないことは仕方ないと諦めるのだが、できるけどやらないことはなんとなく心に残り続ける。できるけどやらないことをやるためには何が必要なのだろう。できるけどやらないことができそうかもなって思えるのは日常の可能性という感じがする。

規則的生活と自己肯定

1万時間の法則? みたいなやつがよく言われる。ある程度の技能を身につけるためには1万時間練習しなくてはいけないというやつだ。これは実は時間の問題だけではなくて、漫然とした1万時間はで意味がなくて、意識的なトレーニング、自分の技量を越える負荷とかが必要らしい。筋肉痛にならないと筋肉が増えない的な、つらいなって思う。わかる。わたしは毎日歩いたり階段を上り下りしているけどそれでどんどんマッチョになるわけではなくて、生活に必要な量の筋肉がつくだけだ。わかるんだけど、それはつらいよね。

こうやって漠然とブログを書いても、いわゆる文章力のようなものは身につかない。身につかないわけだ。

最近は22時に寝て6時に起きる生活をしている。厳密には5時50分に目覚ましがなって、起きて、お茶を淹れて、6時から1時間ほどなんらかの作業をしている。先週はプラトンの『メノン』の読書会があったのでそれの資料作りをしていた。それは無事終わったのでアーレントの『人間の条件』の読書ノートづくりをしている。文フリとはなにか。

ロダンの、『わたしはうつくしい』という彫刻がある。男がうずくまった女を持ち上げている彫刻で、上野の西洋美術館に所蔵されている。わたしはこの作品が好きで、たまに見にいく。今調べたところ、「わたしはうつくしい」というタイトルはボードレールの『悪の華』の一節のようだ。というかロダンは別に作品のタイトルをつけてなくて、その一節が彫られていたからそう呼ばれているという訳らしいな。とりあえずボードレールを注文した。

「わたしはうつくしい」という言葉の力強さはすごい。

一日がおわったときになにもなしていないように感じる。アーレントは必要性の生活、家事などは人間の生命を消費するという表現をしている。ゆえに古代の奴隷は生活に必要な労働肩代わりするという意味で、奴隷の責務は生産ではなく消費されることであったというようなことを書いている。今日も、消費されるだけの一日だった、そうった虚無感に襲われながら眠りにつく。規則的な生活をし、作業時間を確保するのは消費への抵抗なのだとおもう。抵抗したところで?

わたしはうつくしいとまでは言えないが、わたしがこなした様々な生活のことや生活ではないことについて、それをちゃんと自分で讃えなければいけないと思うので、なにかやったら、たとえば早起きできたら「早起きできた、わたしはすごい」と言っていこうとおもった。なぜならばわたしはすごいからだ。

Tokyo 2021 感想: 現象を記録するということについて

朝起きると何もしたくなかった。それでもまあなんとか騙し騙し Tokyo 2021 に行ってきた。

アートを見るとき、なぜこれを作ったのだろうかといつも思う。片手間に1時間くらいで作れるものなら、暇だったんだなとか、気まぐれとかで納得できるが、製作というのはそういうものではない。膨大な時間が注ぎ込まれている。作品の伝えたいものとか、目的とか、意味とか、技法とかよりも、なぜこれを作ろうとおもったのだろうかということを考えてしまう。

Tokyo 2021 の作品は、そういった動機の点においてとても明瞭であるように感じられた。それは、残さなければいけない、伝えなければいけないという切実さだった。

Tokyo 2021 SiteA は「災害の国」というサブタイトルがつけられ、東日本大震災を始めとした様々な災害についての作品が展示されていた。なぜわざわざ作品にしなければいけないのだろうか。ありとあらゆる災害について、すでに膨大な記録が残っており、社会の教科書をめくればそれらを知ることができる。記録、わたしたちは災害を記録することができる。何月何日に発生し、死傷者が何人というふうに。しかし記録は、災害がいったい何者であったか、災害の正体を残すことはできない。

災害は現象である。一回だけ現れて消えてしまう現象だ。現象は、それを体験する人それぞれに特殊に何者かとして現れる。現象を記録するとき、それは客観的で、一回性の現象をあたかも物のように反復して扱える様になるが、その現象が人々にどのように現れたかまでは記録することができない。体験による現れは主観でしかないからだ。

そしてその現象の体験こそが、現象の正体であるように思う。わたしは東日本大震災の被災者ではないが、あれによってわたしが当時参加していた芝居が潰れた。こんなことは被災した方々の苦悩に比べれば些細なものだろう、しかしあのときの感覚は、震災の正体のひとつなのだと思う。

アートはある現象を、作品という現象で保存できる。アートは展示され、わたしたちはそれを体験することができる。アートはなるほど抽象的でわかりにくいし、客観性も正確さもなく、時としてプロパガンダであるかもしれない。しかしアートがわたしに現象するとき、災害が彼らにどう現象したのかを少しだけ伝えることができる。

わたしたちを襲った災害が、一体何者であったのか、その正体を、わたしたちは伝えていかなければならない、そういった切実さを感じた展示だった。