規則的生活と自己肯定

1万時間の法則? みたいなやつがよく言われる。ある程度の技能を身につけるためには1万時間練習しなくてはいけないというやつだ。これは実は時間の問題だけではなくて、漫然とした1万時間はで意味がなくて、意識的なトレーニング、自分の技量を越える負荷とかが必要らしい。筋肉痛にならないと筋肉が増えない的な、つらいなって思う。わかる。わたしは毎日歩いたり階段を上り下りしているけどそれでどんどんマッチョになるわけではなくて、生活に必要な量の筋肉がつくだけだ。わかるんだけど、それはつらいよね。

こうやって漠然とブログを書いても、いわゆる文章力のようなものは身につかない。身につかないわけだ。

最近は22時に寝て6時に起きる生活をしている。厳密には5時50分に目覚ましがなって、起きて、お茶を淹れて、6時から1時間ほどなんらかの作業をしている。先週はプラトンの『メノン』の読書会があったのでそれの資料作りをしていた。それは無事終わったのでアーレントの『人間の条件』の読書ノートづくりをしている。文フリとはなにか。

ロダンの、『わたしはうつくしい』という彫刻がある。男がうずくまった女を持ち上げている彫刻で、上野の西洋美術館に所蔵されている。わたしはこの作品が好きで、たまに見にいく。今調べたところ、「わたしはうつくしい」というタイトルはボードレールの『悪の華』の一節のようだ。というかロダンは別に作品のタイトルをつけてなくて、その一節が彫られていたからそう呼ばれているという訳らしいな。とりあえずボードレールを注文した。

「わたしはうつくしい」という言葉の力強さはすごい。

一日がおわったときになにもなしていないように感じる。アーレントは必要性の生活、家事などは人間の生命を消費するという表現をしている。ゆえに古代の奴隷は生活に必要な労働肩代わりするという意味で、奴隷の責務は生産ではなく消費されることであったというようなことを書いている。今日も、消費されるだけの一日だった、そうった虚無感に襲われながら眠りにつく。規則的な生活をし、作業時間を確保するのは消費への抵抗なのだとおもう。抵抗したところで?

わたしはうつくしいとまでは言えないが、わたしがこなした様々な生活のことや生活ではないことについて、それをちゃんと自分で讃えなければいけないと思うので、なにかやったら、たとえば早起きできたら「早起きできた、わたしはすごい」と言っていこうとおもった。なぜならばわたしはすごいからだ。