ものするひと

『ものするひと』がいつの間にか完結しているということを聞いたので、買った。2巻まで持っていて、3巻で完結ということだった。もうちょっと続くのかなと思っていた。案の定、どんな話だったか完全に忘れていたので1巻から読み直した。基本的に主人公のスギウラの視点で、彼のモノローグを中心に話が進むのだが、スギウラは、なんというかあちらがわの人間で、共感も理解もあまりできない。小説を書くのに苦しいと感じたことはなく、書きたいから書いていたら賞をとって小説家になった、小説家になることへの不安はあったが、書けなくなってしまうことへの恐怖のほうが大きかった、いったいぜんたい何を言っているのかわからないとわたしは感じる。実際にこんな友人がいたら、楽しく遊びながらも嫉妬と羨望で頭がおかしくなってしまうだろう。

マルヒラはスギウラと遊ぶけど、スギウラを尊敬し、才能あるひとへの引け目や、翻って自分の何者でもなさへのコンプレックスなど感じている。彼にわたしは共感する。

漫画を読んでいるとたまに不思議な気持ちになる。『ものするひと』はそういう漫画だった。私の日常というものが存在して、それは私にとっては見飽きたもだ。しかしそれを別の視点からまったくちがう仕方で感じている人間がいる、ということを思い知らされるような。毎日膨大な量の他人を見るけれど、それはオブジェクトでしかなくて、人間でない。漫画は人間を描ける。

『ものするひと』は、スギウラがどういうふうに世界を眺めているかを3巻にわたって丁寧に書いた作品だったとおもう。作品のなかの様々な事件は、たまたま起きたといってもいいし、何も起きなくても良かった気もする。だからずっと続きそうな気がしたのかもしれない。

不思議な気持ち、それは日常の可能性の広がりのようなものの気もする。日常はつねに行き詰まっているが、作品によってそうではない可能性が見る、みたいな。それはべつにわたしも何者かになれるぞ! みたいなものではなくて、もっとささやかな、別の日常、日常への彩りの可能性のようなもの。

できないことは仕方ないと諦めるのだが、できるけどやらないことはなんとなく心に残り続ける。できるけどやらないことをやるためには何が必要なのだろう。できるけどやらないことができそうかもなって思えるのは日常の可能性という感じがする。