神を感じる

漫画を読んでいるとたまに、どうしようもなく羨ましく感じることがある。うまく言えないんだけど、この人は“語られている“なという感じだ。創作物には必ず創作者がいて、キャラクターたちは創作者の意図のもとで物語の中に配置されている。キャラクターが悲劇的な状況でも、彼は意味と意図に満ちている。そして何よりも読者である私がそれを観ている。彼は意味と意図によって作られ、それをちゃんと観測されている、その事実がとてつもなく羨ましい。
現実の生について考えてみると、私たちは偶然に生まれてきて偶然に生きて偶然に死ぬ。全ては偶然であり世界との必然的な関係性は存在しないと私たちはすでに知っている。いや100年200年前の人たちなら本気で神を信じて必然性の中で生きてたのかもしれないけど現代ではそれは無理っしょ。それでも私たちは儀式とか慣習とかで頑張って必然性を演出して誤魔化し誤魔化し生きてる。冠婚葬祭は良い例だ。
だから、物語のキャラクターが羨ましい。
全ての漫画のキャラクターの対して、そういった複雑な羨望を持つ訳ではない。優れた物語に対してだけだ。これもうまくは説明できないのだが、日常的で偶然的でありながら、全てが美しく配置されているような物語、という感じがする。そもそも下手な漫画というのは意味のない設定やコマが多い。つまらない漫画は、粗雑で無意味な私と同じ世界に生きている作者が背後に見えてしまい、失望する。意味がある、とは無意味と偶然性の排除であり、偶然性の世界に生きる私たちがそれを作るためには鍛錬と洗練が必要なのだろうと思う。それは並々足らぬ努力なのだろう。私は創作者ではないからわからないが。
私が特殊な羨望を感じる時、漫画を中心にして神と観測者の関係を感じ取るとき、もしかすると私の生にも神と観測者がいるのではないだろうかという可能性を感じる。私が私の主観視点で毎日クソみたいな生活を送っていたのが、こう、視点をぐいと引き上げられて俯瞰で自分の生活を眺めるような、そういう感じが発生する。私が私自身の生を観測し、語ることによってそれを救うことができるんじゃないか、そういう可能性を感じる。
可能性は絶望の特効薬である。実際に自分語りで自分を救うのか、救われた人がいるかどうかは問題ではない。というか、自分語りで自分を救おうとする行為の果てに待ち受けるのは悲惨な自家撞着だろう。だから倦怠の生活をほんの少し目覚めさせるものとして可能性で十分なのだ。それがなんの行動も起こさないとしても。そしてこの不思議な感覚を得るために私は漫画を読んでいる気がする。