Tokyo 2021 感想: 現象を記録するということについて

朝起きると何もしたくなかった。それでもまあなんとか騙し騙し Tokyo 2021 に行ってきた。

アートを見るとき、なぜこれを作ったのだろうかといつも思う。片手間に1時間くらいで作れるものなら、暇だったんだなとか、気まぐれとかで納得できるが、製作というのはそういうものではない。膨大な時間が注ぎ込まれている。作品の伝えたいものとか、目的とか、意味とか、技法とかよりも、なぜこれを作ろうとおもったのだろうかということを考えてしまう。

Tokyo 2021 の作品は、そういった動機の点においてとても明瞭であるように感じられた。それは、残さなければいけない、伝えなければいけないという切実さだった。

Tokyo 2021 SiteA は「災害の国」というサブタイトルがつけられ、東日本大震災を始めとした様々な災害についての作品が展示されていた。なぜわざわざ作品にしなければいけないのだろうか。ありとあらゆる災害について、すでに膨大な記録が残っており、社会の教科書をめくればそれらを知ることができる。記録、わたしたちは災害を記録することができる。何月何日に発生し、死傷者が何人というふうに。しかし記録は、災害がいったい何者であったか、災害の正体を残すことはできない。

災害は現象である。一回だけ現れて消えてしまう現象だ。現象は、それを体験する人それぞれに特殊に何者かとして現れる。現象を記録するとき、それは客観的で、一回性の現象をあたかも物のように反復して扱える様になるが、その現象が人々にどのように現れたかまでは記録することができない。体験による現れは主観でしかないからだ。

そしてその現象の体験こそが、現象の正体であるように思う。わたしは東日本大震災の被災者ではないが、あれによってわたしが当時参加していた芝居が潰れた。こんなことは被災した方々の苦悩に比べれば些細なものだろう、しかしあのときの感覚は、震災の正体のひとつなのだと思う。

アートはある現象を、作品という現象で保存できる。アートは展示され、わたしたちはそれを体験することができる。アートはなるほど抽象的でわかりにくいし、客観性も正確さもなく、時としてプロパガンダであるかもしれない。しかしアートがわたしに現象するとき、災害が彼らにどう現象したのかを少しだけ伝えることができる。

わたしたちを襲った災害が、一体何者であったのか、その正体を、わたしたちは伝えていかなければならない、そういった切実さを感じた展示だった。