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行為が常に一回であることについて

なにか新しいことを初めようとするとき、続けられるのか? それに意味はあるのか? どれくらい続いたら意味があるんだ? などと考えてしまって、結果初めない、一回もやってみないということがよくある。

例えば筋トレなどは続けなければ意味がなくて、意味がないというのはつまり筋力の増強にならないということなのだけど。そう考えるとこれこれの負荷で一日これくらいの時間をとって、週に何回とか考えてしまうと、そんなに続けられないとか、時間が取れないとかいう問題になってくる。そうすると、まあ無理だなーっておもって、初められない、というのがよくある。

まあこれはいわば結論ありきの思考で、だるいからやりたくないからやらない理由がドンドコ思いつくというやつで、切実な動機があればどうにかして時間をひねり出すよねえというのはまあ別の話。

私が話題にしたいのは、筋トレってそもそも一回の行為を指すよねという話です。

実際に筋トレというものをやってみると、それは筋肉の緊張と弛緩の連続とか、バーベルの冷たさとか、ウェイトを5Kg増やすだけで世界が変わったり、そういう感覚の集合で成り立っている。

効果や成果というものを基準に取ると、筋トレはある期間、持続する継続する流れを持つ行為みたいに捉えてしまう。そうすると、それは持続しなければ意味がないというふうになる。

話は飛ぶのだけれど、そういう流れをもつものにしか意味を見いだせなくなっている感じがある。時間的な幅があり、価値を生む行為というものに意味を見出して、ものすごい量の感覚の塊である行為一回そのものは蔑ろにしてしまうということがよくある。

続くかどうかはわからなくて、次の一回があるかどうかも関係なくて、今の一回を行為するというふうにやっていきたい。とにかくまあ一回くらいはいろいろなことを試しにやってみようとおもう。