良さをめぐる思考(ピーピングトム 「ファーザー」 感想)

私は良い作品をみると良いという(主にツイッターにだが)、良いものをみることは好きだし、良いものをみるために時間やお金を支払っている。みんな多かれ少なかれそうだとおもう。ところでこの良いとは一体なんなのだろう。

明らかに良いもの、というものがある。例えば2016年は映画の当たり年だと言われた。わたしもいわゆるビッグタイトルは一通りみたし、どれも良いものだった。どの作品も見終わったあとは独特の感情でいっぱいだったし、人にも勧めた。映画について語らうのは楽しかった。明らかに良い作品たちだった。

逆に、良いのかどうかよくわからないものもたくさんある。 見たあとに、いや見ながら、これは良いのか? 悪いのか? 稚拙なのか? 完成しなかったのか? わざとか? 悪ふざけなのか? 本気なのか? と、とても不安な気分にさせられ、不安なまま終わり、なんだったんだあれは、金と時間の無駄だったのでは? いやそう言いきれもしない、というような感想をもつ、そしてなんと言っていいのかわからないので人にも勧めないどころか、見に行ったことすらなかったことにする、というような作品だ。

そういった作品は、その、なんというか、困ってしまう。

先日私はピーピングトムの「ファーザー」というダンスの公演を見てきた。これがまさに「よくわからない作品」だった。 この作品についてどのような感情を抱いたかはだいたい前述の通りだ。

しかし非常に印象的だったシーンがあった、これについて語り、良さとはなんだろうということを考えてみる。 それは、老人ホームで老人にご飯を食べさせていた介助士が、突然鶏になって踊りだし、老人が戸惑う、というシーンだ。 鶏になる、というのは衣装が変わるわけでも鶏を表す記号的な身振りをするわけでもない、彼らの動きがまさしく鶏になっていた。それは素晴らしい技術だった。

私はこのシーンに既視感を覚えた。ああ、わかる、よく見る、と思った。老人の戸惑いに共感した。 人間だと思っていたものが、突然その人間性を失ってしまうという状況にたまに出くわす。 鶏になってしまった彼は、今度はそれが当たり前にように振る舞う、さっきまで人間だったはずなのに。

この豹変は、例えば相手の気に障ることを言ってしまって怒らせてしまったとか、そういうわかりやすい事もある。 あるいはもっと些細な、挙動、言動、指や目の動きに人間性の欠落を感じることもある。

私と同じ人間であると思って接していたのに、何かの拍子に、相手が私とは全く違う異質なものであることが判明する。 あるいはその片鱗をみる。 この時の不安や恐怖、それを私は日常的に感じていた、だから鶏のダンスには納得があった。

わたしはあの鶏のダンスのシーンをしばらくは忘れないだろうとおもう。 忘れてしまってからも、人間が鶏や蟹にに豹変するときにまた思い出すだろう。

良いかどうかはわからなかったが、わたしは公演のなかでこのような体験をした。

以下の引用はどちらも、サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら」への言及である。

贋物の象徴は柔らかくて曖昧であり、本物の象徴は硬くて明晰である。<象徴的> という言葉は、しばしばどうにもはっきりしないものを指すのに使われるが、真の象徴とは実は極めて具体的なものであり、ある一定の真実が姿を現すためにはこの形しかない、といった抜き差しならぬものである。
ピーター・ブルック 「何もない空間」 p.82

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彼の創造的直感は経験の諸要素を探り出し、すべての人間が、その人格の深層に抑圧と分裂の種子をどの程度まで宿しているかを示す。サン・クェンティンの囚人たちが「ゴドーを待ちながら」に反応したとするなら、それは彼らが時間や待つことや希望や絶望についての自分たちの経験に出会ったからだし、ポゾーとラッキーの加虐・被虐的相互依存や、ウラジミールとエストラゴンがいつも言い争う愛憎のなかに、自分たちの人間関係についての心理を認識したからだ。
マーティン・エスリン 「不条理の演劇」 p.57

私は私の不安の輪郭正確に捉えることができない。優れた作品、硬い象徴に出会った時に、それは掘り起こされる。 私の人生の曖昧な部分が投射し、立ち上がってくるあの感覚。 これは「良い」の一つの側面であるとおもう。

そしてわたしはこの良さに出会うために、なんだかよくわからないものをこれからも巡っていくのだろうとおもう。