記述は最小の社会である

なんらかの考え事をするとき、頭のなかだけで考えているとどうにもうまくいかない。考えがまとまらず、どうでもいいことに気を取られ、そもそも何について考えていたのかもわからくなり、気づくと眠っている。しかし紙とペンをとって、なんとなく、思いつくまま、汚かろうと読めなかろうと書きながら考えるとすんなりと考えられたりする。

頭の中での考え事は漠然としている。それは事実と印象と感情と論理がごちゃまぜになっているような感じだ。それは言語的であったり、非言語的であったりもする。同じ推敲経路を何度も何度も通り、偏った思考がどんどん強化されてしまったりもよくある。

しばらくそのようなとりとめのない思考をしたあとに、紙に書いてみると、社会性のようなものが発生する感じがある。あった。客観性といってもいいかもしれない、秩序というと言い過ぎな気がする。

書くことのメリットは多分たくさんあって、ひとつは思考の経路を認識できることだろう。これは上記のような堂々巡りを防げる。また、数秒前の自分の思考を読めるということは対話的であるし、対話は社会だ。

もうひとつ、言語化できないものは書くことができないというのもメリットだろう。”なんとなく嫌な感じ” というのを言葉にするには、その原因や、比喩的表現を見つけなければいけない。そして記述してみると案外たいしたことなかったりする。しかし頭のなかで考えていると、そのネガティブな印象に引きずられてトンデモナイ方向に思考がすすんだりするし、最悪死ぬ。曖昧な印象や感情を少なくとも記述において排除できるのは強いと思う。

記述には、それが自分にしか読まれないものであっても社会性がある。言語的で、非感情的で、論理的で、対話的で、もっと言えば非人間的な冷たくて硬い社会性がある。すくなくとも私の頭の中よりはある。エモーショナルで詩的な表現を駆使すれば、記述のなかにも陶酔的で温かみのある世界が広がるのかもしれないが、それはそれで才能と修練が必要だろう。少なくともわたしは稚拙な言葉を積むことしかできない。

感情と陶酔は良くも悪くも気持ちいいが、それはわたしを混乱させ、何もかもなんだかよくわからなくなってしまう。そういうときは記述によって社会性を注入しよう、ここに最小の社会をつくろう。

ところで書くことが言語化不可能なものを排除することならば、非言語的なままでやっていきたいときは記述してはいけないということがわかる。例えば感情であり、強い感情で怒ったりとか、そういうのが該当するだろう。