本の読み方

 

自分の知識の量とかを冷静になって振り返ってみると、やはり本を読む量が足りていないと感じる。研究職ではない一般の人という点では、私は物知りの部類に入るのかもしれないが、実際に知識で何かをちゃんと考えようと思うと全然足りていないというか、知識が穴だらけですごい基礎的なことが抜けていたりと不便を感じる。

これは多分純粋に量の問題で、本をたくさん読むとある程度解決すると思う。私の知識は、質を論ずる段階にない。量が足りない。しかし実際に、本をたくさん読むというのはどういうことなのだろうか。私は頑張っても月に5〜10冊くらいしか読めない。ちょっと歯応えのある本に取り掛かると一冊に1ヶ月以上かける。どうすればたくさん読めるのか。

一冊を、ちゃんと読んで理解するという考え方が間違っているのかもしれない。ちゃんとじっくり読むぞ!となると時間がかかる。ざっと読んで、どこに何が書いてあるかの記録と記憶を残して、あとで参照しに戻ってくるくらいの軽さで読むといいのかもしれない。どうだろう。文学作品のこととかは考えてないな。

あと金の問題。本は高い。高いので一冊一冊やはり買うかどうかちょっと迷う。本は買うものという認識が悪くて、図書館を使う。金が足らん。

読書メモ。読書メモの作り方は色々試行錯誤していて、とりあえず読みながら付箋を貼っておいて、読み終わった後に付箋を回収するようにメモをつくるという感じでやっているのだけど、それだと読み終わった後に作業が、しかも結構膨大な作業が発生する。読書会の課題本でレジュメを作ったり、特に気に入った本ならばそういう作業も厭わないが、そこそこの本だと放置されて、謎の付箋だけが残ることになる。

なので結局、読みながらメモを取るというのが良いのかもしれないと最近思う。大体常にiPhoneは持っているので、読みながら気になったところのページとなんか感想なり書いてることなりを一言メモる。これはこれで面倒くさいけど読み終わった後に作業が発生しない。

そういうわけで昨日は職場近くの図書館の利用登録をしてきた。

ミルクティー

生きてるだけでいっぱいっぱいという感は常にあり、今日もなんだかよくわからないし心当たりもないけどなんだかストレスがやばいことになって、ストレスやばいなーって思った。ので、ミルクティーを作って飲んでる。程よい温度のホットミルクを一気飲みする快楽が存在する。

Kindle Unlimitedにまた入った。あれは退会してしばらくするとまたお試し価格で入会できるシステムのようで、たまにチェックする。今回は2ヶ月99円だかで入った。Kindle Unlimited、はっきり言ってラインナップもクソだしこれに金払うやついんのかよって感じのサービスだが、光文社新約古典文庫が読み放題という一点で価値がある。後はマジで読むものがない。以前はクソみたいなビジネス書や自己啓発本を読んでクソみたいだなって思う遊びもしていたが、それもすぐに飽きてしまった。漫画が2巻まで読めるみたいのも一体なんの意味があるんだろうな。ただのお試しじゃん。

久しぶりにミスドのドーナツを食べている。コンビニドーナツにも、クリスピークリームドーナツにも負けなかったミスド、すごい。そして美味しい。昔に比べて小さくなった気がする。

 

幸福について

ツイッターめっちゃ見てる。というかiPhoneがそれ以外に使っていない感じがある。でも見てるだけあんまりポストはしてなくて、なんというか、断片的な言葉をぽつりぽつりと投げていくというのに飽きた感じがある。ブログで500文字くらいだらっと書くのが良いなと思う。だらっと。今のTwitterの仕様がすごく連投しにくいというのもあるのかもしれない。なんとなく使いにくい。

だらっとではなく書きたいこともあるのだけど、なんだかめんどくさくてまあいいやとなってしまう。

幸福について考える。私も若い時分はつまらない大人になりたくないなどと思っていたが、結局どうなっただろうか。しかしかなりいい歳になっても拗らせている人はたくさんいるし、つまらない大人ではないことを証明しようとして、なんだか致命的なやらかしをする人もたくさんいるなあとも感じる。現代の日本において人並みに幸福になることは難しいのかもしれない。少なくとも私やの世代やもっと若い世代はそう考えているんじゃないかなと思う。そんな中で、ひとりのつまらない大人であるという類の幸福を受け入れられるのは、自意識や拗らせを乗り越えた一部の人間にしか到達できない場所なのかもしれないと思う。しかし、やはり、みんな、何もかも諦めて受け入れたような顔をしながら、虎視眈々と何かを狙っているのだ。そして不意にやってくるチャンスに飛びつくが、そういう気持ちをうまいこと救ってにんじんをぶら下げる詐欺師はいつでもどこにでもいるもので、それゆえに身を滅ぼす。何をすべきなのかはやはりわからない。私は退屈な大人になり、少なくとも今はその退屈さを受け入れる程度に幸福で、それは幸運なことなのだなと思う。

床屋

髪の毛を切るのが苦手だ。いや別に自分できるわけじゃないから、正確には、切りに行くのが苦手だ。なんでだろう。まあ、なんとなく。めんどくさい。ただでさえめんどくさいのに予約してから予約した時間に行くというめんどくささ、かといって予約しないタイプの床屋とかだと結構混んでて待つというめんどくささ。結局かなりボサボサになってからどうしようもなくなってから行くというパターンになる。

1000円かそこらで切ってくれる床屋というのがたくさんあり、私の家の近所にもある。実際そんなにこだわりはないので1000円カットで十分だな安いしとは思うのだが、理容師も美容師も専門職で、そういう人たちをそんなに安く買い叩いていいものだろうかと不安にもなる。じゃあいくらが適正なのかというのはよくわからない。というようなことをもやもやと考え、結局今回は近所の、1000円ではない床屋に行った。

せっかく床屋に行ったので顔剃をしてもらったが、あれは緊張感がある。完全に生殺与奪を握られている。理容師が今突然気が狂ったら私は死ぬなと感じながら顔を剃られた。ジョジョ3部のアヌビスの話とか、スウィニートッドとか、床屋が人を殺す話を思い出す。床屋が私を殺して得られるメリットはほとんどなくて、だから私は安心して顔を剃られることができるなと思う。例えば私が独裁者だったら、私を殺したい人とか、私を殺して利益を得られる人が山ほどいるだろうから、誰かに顔を剃らせるなんてことはできないだろう。

 

詩的なもの


ものすごく久しぶりに深夜のファミレスというものにいる。居酒屋とは違うガヤガヤ感、若者の笑い声、ドリンクバー、明るい照明、そういったものに囲まれている。ファミレス、学生の頃はちょくちょくいっていたが、次第に行かなくなるというか、まあいく理由なくなるよね、別に美味しくないし、特段に安いわけでもないし。カフェだって、隣でよく詐欺くさい話をしていて最悪っぽいけど、まあファミレスよりはましって感じがするのでカフェに行ってしまう。でもファミレスではあんまり詐欺の話してないかもね。

詩の話を書こう。生活に詩がないなという印象を、「パターソン」という映画を見たあたりからなんとなく思っていた。生活というものは実質的なものに埋め尽くされていて、それは生存のために必要な生活と、生存のために必要な金を得るために必要な労働でほとんど占められている。どちらも実質的な目的に基づいていて、それらに従事しているとき、私は合理的で目的に向かって進んでいる充実感が得られる。その目的というものが無意味であることを除けば。

余暇の時間には、余暇の時間用の娯楽が用意されていて、私はTwitterをやって広告を見たり、ゲームをやって広告を見たり、漫画を読んで広告を見たり、後は何かを買ったりしている。ものすごい速さで生産し、それらをものすごい速さで消費し尽くさなければならない、とアーレントが書いていたが、全くそのような日々を送っている。

そこには詩的なものが何もないと感じる。詩的なものとはなんだろうか。生産とも消費とも切り離された、私が発見したそこにある良さのようなもの。あるいは他人が発見した良さを理解しようと努めること。良さは現れる、唐突に、私の生活の文脈をぶった切るように。その時に立ち止まってそれを拾うということ。

私は定期的に、詩的なものを求めて詩集や歌集を買ったりする。しかし正直、詩や短歌を読むのは苦手だ。多分ゆっくりとしか読めないからだと思う。普通の文章なら、かなり類推が効くので、平易な文なら半分も読めば意味がとれる。難しい文章であっても、全ての文をじっくり読む必要はなく、とりあえず重要そうなところさらう、ここは重要そうじゃないからざっと読むみたいなことができる。しかし詩というのは結局全ての言葉がそこにあることに意味があるのであって、読み飛ばして意味を類推することはできず、一語一語追っていく必要がある。その遅さが苦手なんだと思う。

 

金が減ること

必要な物を買っているといつの間にか金がっているのがつらい。仕事帰りに薬局とか寄って、必要な物を適当にカゴに入れているといつの間にか3000円近くなってしまったりして、こないだちょっと体調が悪くて薬なんて買っただから尚更、そういう時になんだか悲しい気持ちになる。3000円か、本が買えるな、とか。映画も見れるし、なんなら安い焼肉とか食える。3000円のウィスキーとか私からしたら結構な高級品だ。3000円の可能性はすごいし、しかし必需品であっさり飛んでいく。無料で生存したい。

 

叫ぶ権利

全てがくだらないという思春期の中学生のような気持ちで生きている。生きているな。しかし思春期の中学生とわたしの相違点はわたしは自分で生計を立てているし、全てのくだらない事柄にもちゃんと意味があるかのような素振りを普段はしているということだ、それがコミュニケーションというものだからな。だからわたしは一人になった時に、全てがクソ!!!と叫ぶ権利がある。いやこの権利は誰にでもある、人権だ。

もしわたしが思春期の中学生と青臭い話をする機会があったらそれは大人になってもわからないと言ってやろうと思う。わからない、なにも。そんな中学生はわたしの想像上にしか存在しない。