床屋

髪の毛を切るのが苦手だ。いや別に自分できるわけじゃないから、正確には、切りに行くのが苦手だ。なんでだろう。まあ、なんとなく。めんどくさい。ただでさえめんどくさいのに予約してから予約した時間に行くというめんどくささ、かといって予約しないタイプの床屋とかだと結構混んでて待つというめんどくささ。結局かなりボサボサになってからどうしようもなくなってから行くというパターンになる。

1000円かそこらで切ってくれる床屋というのがたくさんあり、私の家の近所にもある。実際そんなにこだわりはないので1000円カットで十分だな安いしとは思うのだが、理容師も美容師も専門職で、そういう人たちをそんなに安く買い叩いていいものだろうかと不安にもなる。じゃあいくらが適正なのかというのはよくわからない。というようなことをもやもやと考え、結局今回は近所の、1000円ではない床屋に行った。

せっかく床屋に行ったので顔剃をしてもらったが、あれは緊張感がある。完全に生殺与奪を握られている。理容師が今突然気が狂ったら私は死ぬなと感じながら顔を剃られた。ジョジョ3部のアヌビスの話とか、スウィニートッドとか、床屋が人を殺す話を思い出す。床屋が私を殺して得られるメリットはほとんどなくて、だから私は安心して顔を剃られることができるなと思う。例えば私が独裁者だったら、私を殺したい人とか、私を殺して利益を得られる人が山ほどいるだろうから、誰かに顔を剃らせるなんてことはできないだろう。

 

詩的なもの


ものすごく久しぶりに深夜のファミレスというものにいる。居酒屋とは違うガヤガヤ感、若者の笑い声、ドリンクバー、明るい照明、そういったものに囲まれている。ファミレス、学生の頃はちょくちょくいっていたが、次第に行かなくなるというか、まあいく理由なくなるよね、別に美味しくないし、特段に安いわけでもないし。カフェだって、隣でよく詐欺くさい話をしていて最悪っぽいけど、まあファミレスよりはましって感じがするのでカフェに行ってしまう。でもファミレスではあんまり詐欺の話してないかもね。

詩の話を書こう。生活に詩がないなという印象を、「パターソン」という映画を見たあたりからなんとなく思っていた。生活というものは実質的なものに埋め尽くされていて、それは生存のために必要な生活と、生存のために必要な金を得るために必要な労働でほとんど占められている。どちらも実質的な目的に基づいていて、それらに従事しているとき、私は合理的で目的に向かって進んでいる充実感が得られる。その目的というものが無意味であることを除けば。

余暇の時間には、余暇の時間用の娯楽が用意されていて、私はTwitterをやって広告を見たり、ゲームをやって広告を見たり、漫画を読んで広告を見たり、後は何かを買ったりしている。ものすごい速さで生産し、それらをものすごい速さで消費し尽くさなければならない、とアーレントが書いていたが、全くそのような日々を送っている。

そこには詩的なものが何もないと感じる。詩的なものとはなんだろうか。生産とも消費とも切り離された、私が発見したそこにある良さのようなもの。あるいは他人が発見した良さを理解しようと努めること。良さは現れる、唐突に、私の生活の文脈をぶった切るように。その時に立ち止まってそれを拾うということ。

私は定期的に、詩的なものを求めて詩集や歌集を買ったりする。しかし正直、詩や短歌を読むのは苦手だ。多分ゆっくりとしか読めないからだと思う。普通の文章なら、かなり類推が効くので、平易な文なら半分も読めば意味がとれる。難しい文章であっても、全ての文をじっくり読む必要はなく、とりあえず重要そうなところさらう、ここは重要そうじゃないからざっと読むみたいなことができる。しかし詩というのは結局全ての言葉がそこにあることに意味があるのであって、読み飛ばして意味を類推することはできず、一語一語追っていく必要がある。その遅さが苦手なんだと思う。

 

金が減ること

必要な物を買っているといつの間にか金がっているのがつらい。仕事帰りに薬局とか寄って、必要な物を適当にカゴに入れているといつの間にか3000円近くなってしまったりして、こないだちょっと体調が悪くて薬なんて買っただから尚更、そういう時になんだか悲しい気持ちになる。3000円か、本が買えるな、とか。映画も見れるし、なんなら安い焼肉とか食える。3000円のウィスキーとか私からしたら結構な高級品だ。3000円の可能性はすごいし、しかし必需品であっさり飛んでいく。無料で生存したい。

 

叫ぶ権利

全てがくだらないという思春期の中学生のような気持ちで生きている。生きているな。しかし思春期の中学生とわたしの相違点はわたしは自分で生計を立てているし、全てのくだらない事柄にもちゃんと意味があるかのような素振りを普段はしているということだ、それがコミュニケーションというものだからな。だからわたしは一人になった時に、全てがクソ!!!と叫ぶ権利がある。いやこの権利は誰にでもある、人権だ。

もしわたしが思春期の中学生と青臭い話をする機会があったらそれは大人になってもわからないと言ってやろうと思う。わからない、なにも。そんな中学生はわたしの想像上にしか存在しない。

MCU全部観る

MCU全部観るというのをやっていて、つまりアベンジャーズシリーズなんだけど、インフィニティウォーまで観た。複数の作品を一つのユニバースでまとめて、シリーズで展開する、しかも映画で、という発想、そして財力がすごい。

インフィニティウォーはその最たるもので、完全に一見さんお断りでこれだけ観るとクソつまらない映画なのだけど、ここまでシリーズ観てきたし、この先もまあぼんやりと知ってるので、うおおとなる。すごい。

日記というかブログを書くという行為、なにも考えないでただ書いて投稿するだけなので時間としては5分から20分くらいで終わるのだけど、生活の中でキーボードの前に座るということがほとんどなくて、それゆえに書かないということになる。フリック入力で書きましょう。

干し芋の

iPadのホームボタンがなんか固くなってうまく押せなくなった。iPhoneもホームボタンが物理的に押し込むボタンだった頃は、そこからいつも壊れていたので、物理は弱い。これって修理してもらえるのかな。

テキストを書くときはもっぱらiPadと外付けキーボードでやっている。MacBook Airも持ってるし、そっちの方がまあ確かに色々便利なのだけど、わざわざ立ち上げたり、充電が残ってなかったり、重かったりでなんか色々だるいので結局iPadになる。こないだ調べてみたら新しいiPad AirとMagic Keyboardで10万くらいで収まるっぽいのでこれはかなりいいなと思った。

iPadと外付けキーボードの組み合わせはなんかバグが多くて挙動が安定してなくて、急に日本語が打てなくなったり、ライブ変換が変なことになって変換が効かなかったりする。多分日本語周りで弱くて、英語しか使わなければそんなに問題ないんだと思う、それゆえに放置されているのかもしれない。これらの問題は以前からあったけど、OSをアップデートしてからひどくなった。たとえばライターの人とかだったらこれは耐えられないだろうなと思う

今もなぜか入力位置のカーソルみたいなやつが、矢印キーを押すと消えてしまうという現象が発生している。まあゆっくり直してもくれればいい。

10万円というのは大金である。おいそれとは使えない。わたしはあと乾燥機付き洗濯機が欲しい。洗濯乾燥機? 洗濯という行為、洗濯機によってかなり省力化されたものの、結局洗濯機のスイッチを押して、洗濯が終わるまでゲームして待って、干してという一連の流れで一時間以上かかるのでだるい。洗濯乾燥機は明らかにQoLが上がるだろうな。いくらくらいするのだろう。多分10万円では買えない。

世界はクソなので世界を遮断したいという中学生みたいな気持ちで今も生きている。いやべつにさっきの一文はいらなかったな、普通にヘッドホン壊れたので欲しい。前に使っていたのは秋葉原のヘッドホンたくさん売ってる店で色々試聴して買った2万円弱くらいのやつで、気に入っていた。ソニーのワイヤレスの新しいやつがいいっぽいのでそれが欲しい、4万円する。高い。何もかも高いな。でも逆にいうと50万くらいあれば欲しいもの全部揃うとも言える。

欲しいものの話をしてきたけど実は全部いらないんじゃないかという気持ちになってきた。別になくても生きていけるし。わたしの物欲というのはその程度です。

救いとしての日記

日記をつけると自分の思考が整理できて人生について深く考えられ、生活がどんどんよくなっていくというふうな記事や本がよくある。ちゃんちゃらおかしいなと思う。わたしはそりゃ毎日つけているわけではないが、曲がりなりにももう十年以上日記をつけているが、鬱々とした不安な毎日を送っている。くそったれだ。このブログだってなんだかんだで何年か続けているが、やはりべつにこれによって生活が向上したりはしない。

たった10分の運動でみるみる痩せるみたいなダイエット広告と同じで、運動を継続できない人が運動に過度の期待を持つように、日記を継続できない人が日記に過度の期待を持っている。いや、期待を持っているという表現は多分間違っていて、自分が持っていないものに関しては未知だから、未知ゆえに漠然とした期待を持っていて、それにつけ込んでその期待を膨らませるような記事や本がよく売れるのだろう。

日記に、生活や能力を向上させる力などない。

エコーチェンバーという言葉があるが、日記はいわば究極のエコーチェンバーだ。何せ自分しかいない。自分で自分の言葉を何度も何度も繰り返しているうちに、自己は歪に強化され、ゆっくりと狂っていく。

あと、文章力とかも上がらない。私たちが毎日通勤通学で歩いたり階段を登ったりしてもムキムキマッチョにはならないように、能力というのは限界付近でトレーニングしないと向上しない。日記やらブログやらでクソのような文章をクソのようにひり出したところで、文章力はつかない。クソが残るだけだ。

とにかく日記なんてものは人生の時間の無駄なのでやるべきではない。