写真を撮ることの奇妙さ
会社にカメラを持っていって、昼休みに散歩しながら写真を撮ったりする。写真を撮るという行為は奇妙な行動だなと思う。昼休みにカメラを持って外に出る姿もまた奇妙な気がするので、そそくさと目立たないように出ていく。街でカメラを構える所作もまた奇妙だ。歩くということはどこかに向かって歩いている。とくに通勤時間帯やオフィス街では、目的もなく散歩している人は少なく、流れが形成されている。その中で突然立ち止まって、カメラなり iPhone なりを取り出して構えるというのはなんだか変な感じがしてしまう。違和感のある淀み。写真も映画も、それを撮影している人がいるということを考えると不可解な気持ちになる。わたしはカフェに行くのが好きで、その理由の一つに立ち止まりたいからというのがあって、日常でも歩行でも、やはり立ち止まることは難しいのだ。写真もまた立ち止まるために撮っているのだろうと思う。
無気力がすごい
なんだか無気力がすごいぞ。無気力が充溢している。なにもしたくなさすぎる。しかしよくよく考えてみれば、無気力だろうが有気力(?)だろうが作業量はそんなに変わらないので最初から最後まで心の問題だ。いやこれもまだましなほうだから言えることで、無気力であってもぶっ倒れていないし生活できているのでつまり大した問題ではないのだろう。いつぶっ倒れるのかは予測できない。
時間を無駄にしたくないという強い気持ちがある。例えばわたしは通勤中に本を読んでいるのだが、だから家に帰ってくつろいでいるときは通勤中にできないことをしようという気持ちになり本を読まないでゲームをしたりする。これってどうなんだろう。無気力なのでゲームをやる気持ちがなくなってしまっているので普段と違う形で過ごそうと思う。ぼんやりと音楽を聞いたり、コードを書いたりだ。
spotify から三ヶ月で1000円のクーポンが届いていたのでまた契約した。サジェスト機能の精度に驚く。
夏になると睡眠時間が短くなる。これは毎年のことなのだけど、今年は極端で、2時に寝て5時に目が覚めたりする。ちょっとそれは死を感じるのでまた寝る。
日々が在る
日々が在ると感じる。生活という即自、無限の密度をもつ必要性に満たされたものが在る。
さらざんまいというアニメがおもしろい。テーマはつながりとか欲望とかそういったもので、テーマにむかってストレートに突き進む表現がすごい。偏執的な欲望を持った者に「欲望か愛か」と問うシーンが毎回ある。しかし果たして自己自身を振り返ってみて、そんな明確で明瞭な欲望をもっているだろうか。
また強い無力感がやってくる時期になっている。しかし問題はない、必要なことというのはまさに山ほどある。平日においては労働が、休日においては生活がある。必要なことをやっていればいつのまにか終わっている。早く終わらないかなとわたしはいつも思っている。
欲望ってなんだっけって感じだ。仮に真の欲望というものがあるならば、それを自覚し、それに向かって行動することはとても大変だ。具体的には洗い物を早く終わらせたり、早起きしたりして時間をつくらなといけない。めんどくさいな。そして真の欲望というものがあるならば、偽の欲望というものもあるだろう。資本主義は欲望によって駆動している。私たちがより良いものやより新しいものを欲し続けなければ停滞してしまう。だからわたしたちは様々な欲望を植え付けられている。それは労働の合間のわずかな時間と搾取されなかった労働の価値(給料)でちょうどまかなえるか、すこし足りないくらいに設定されている。
わたしはそういった何者かに植え付けられた欲望をたくさん感じる。なぜほしいのかわからないし、手に入れたあともなぜほしかったのかわからないものがたくさんある。その欲望はわたしなのだろうか。
さらざんまいでは、死してなお欲望の虜である者をカパゾンビと呼ぶ。しかし外的なイデオロギーによって喚起されたのではない欲望を保持し続けている彼らをわたしはうらやましいと感じる。
生きるとは何だろうと若いころの私は思った。生きるとは生活なのだなと、もう少し年をとってから思った。では生活となんだろう? 捕らえ所のないものだろうか。とんでもない。生活は存在する。石ころが、その存在を現れと本質に二分できないように、生活もまた存在する。生活に本質はない。無限の存在密度をもってただ存在している。
その生活を支えていると、わたしもまた現れも本質も欲望もなく、ただ必要性の存在になってしまうような気がする。即自存在を存在減圧するのが人間の無化する能力ならば、生活を減圧するのもまた人間固有の能力なのだろうと思う。生活を無化するもの、在るべき姿を想定し、欠如を認識し、欠如者である不安をうけいれるということ、減圧された生活は、超越し、超越にむかって進むから、不安だ。欲望、欲望を手放すな。
毎日持ち歩いているもの
毎日必ず持ち歩くものはいろいろあって減ってきた。
財布 - elephant wallet
財布はちょくちょく変えるのだけど、結局これに戻ってくる。コンパクトでよい。小銭は持たない。募金しろ。
メモ帳 - コクヨ測量野帳
10冊セットをロハコで買うと安くてよい。ロハコはアスクルなので、会社の経費でこっそり買うこともできる。もう50冊くらい使ったかな。メモ帳もやはりたまに別のやつに変えてまた野帳に戻ってくるということをやる。
イヤホン - Air Pods
一万六千円? たけえよ! と思っていたが労働を始めた勢いで買った。結果とても良い。
ボールペン - Sarasa
高い金属軸ボールペンよりも100円のプラボールペンのほうが精度も書き心地も良いのが謎だ。これ以上を求めると万年筆一択となる。顔料インクは良いものだ。
鍵
できれば持ち歩きたくない。
iPhone
筋トレ、プラトン、暮らしの本
通っていたジムがリニューアルで値上げするとのことで、解約してしまったのが半年前。体重も少し落ちてきてしまったのでまたトレーニングでもするかとおもって市立体育館のトレーニングルームに行ってきた。びっくりするくらいきれいで、マシンもそろっていて、フリーウェイトがないのが残念だった。久しぶりに体を動かすとほぐれる感じがしてきもちよかった。最近肩が凝っていたのは運動不足だったからか。
プラトンの「国家」が届いていた。週末までに読まなければいけない。読書会だ。このような機会がなければ決して読まなかっただろうなと思う。特に国家は長いし。
生活をなんとかしよう週間なので、家の掃除というか片づけをしている。片づけはリファクタリングに似ている。全体の振る舞いを破壊しないように影響範囲の小さいところから片づけていく。これを無視して、全体を一気に変えようとするとなにもかもぐちゃぐちゃになったところで月曜の朝を迎えて破滅する。
片づけた結果は見た目はそれほど変化しないが、内部構造は整理されて、不要なものは破棄され、必要なものによりアクセスしやすくなる。部屋のある部分がきちんとした構造をもって存在しているということは精神にとても良い。全体が破滅的であったとしてもだ。
丁寧な暮らし的な本を読みあさっている。読者の対象は主婦がメインで、仕事と育児と家事を効率よく両立するにはという視点のものが多い。気になったのは。夫との時間を大切にするという記述がよく見られることだ。なんだろうな、そういう、すてきな奥さんロールモデルは男性からすれば好意的なのかもしれないが、当の女性からはなんというか、くそだなって思われていると思っていたので以外だった。
暮らしの本に「夫」が登場することはほとんどない。子供はまだ、子供に手伝ってもらうとか、子供が楽しく過ごせる部屋づくり的な視点で登場する。そこで「夫との時間を大切にする」というような記述で突然夫が登場するもんだから、しかも何回も、不気味な感じがする。
ああ、編集者か編集長か、最終的な意志決定をする人が男性で、そういうすてきな奥さん感を差し込んでおくと通りやすい的な配慮なのかもしれない。
生活をちゃんとするとはなにか
生活はすぐに破綻する。気づけば本と服とゴミで床が見えなくなってしまう。掃除機を最後にかけたのはいつだったか。
生活をちゃんとするということはどういうことなのだろうか。私は生活をちゃんとしたい。ちゃんととはなにか。毎日掃除をしていればちゃんとなのだろうか。そうなのだろう。
丁寧な暮らし的な本を読むと、コンロを使ったついでにすぐに掃除しましょうなんてことが書かれている。無理だ。めんどくさすぎる。使った直後のコンロは熱くて掃除ができないし、冷める間で待っていたら忘れる。収支そんな感じで、めんどくさすぎる無理ということになってしまう。
丁寧な暮らしまでいかなくとも、ましな暮らしはしたい。ものの隙間にわずかに見える床を飛び石のように移動するのはストレスだからだ。まずめんどくさいという概念の上書きが必要なように思える。
キルケゴールが言うには、キリスト者はもっとも恐ろしいものを知っているが故にそれ以外をおそれない、とのこと。わたしももっともめんどくさいものを知れば、それ以外をめんどくさがらなくなるのかもしれない。
生活は難しい。