sekiro 買ったのとインポッシブルアーキテクチャ

不安。常識というものがよくわからないと思う。もっというならば、別に必要であるとは思わないんだけどやっておかないと失礼らしく、それですごく怒る人もいるけど、べつに気にしない人もいること、それってやるのめんどくさいよね、めんどくさいから私はやらない、という種類の事柄への不安。不安に感じるくらいならそれを保険をかける意味でもやっておけということなのだけど、私はやらないことが多い。抽象的だな。

私は結局のところ、具体的で矮小な悩みがあり、それをごまかすために、その悩みの矮小さゆえの醜さ、まさにそこに醜さを感じるということが醜いのだが、それを隠すために存在やら絶望やらについて考えるのかもしれないと定期的に思う。

sekiro を買った。久しぶりに発売日にゲームを買った。最近はあまりゲームについて発売日前に調べるということをしない。買うべきゲームは結局買うからだ。買ってから、完全オフラインであることを知り、それならもうちょっと待ってからでもいいかなと思った。発売日にゲームを買うというのは、そのゲームがどうやって出来上がっていくか、メタがどう変わっていくかというのを見るためにというのがでかい。わたしはカジュアルゲーマーなので、正直メタがどうとかどうでもいいんだけど、パッチが当たってゲームが良くなったり悪くなったりする変遷を眺めるのは楽しい。そしてそれはオンライン要素があるからこそだ。別のプレイヤーがいるからバランスがむずかしく、オフゲーだとあんまりラディカルなパッチは配信されない、気がする。というのはどうでもよくて、sekiro 面白いね。

何もかもめんどくさい。明日がやってくることに耐えられない。

あとインポッシブルアーキテクチャ展に行ってきた。日曜日で終わりなので滑り込みセーフだった。建築の展示はわりといくけど、建築の知識がないので図面とか見てもよくわからないのがなんだかなという感じだ。教養としての建築を学びたい。どうすれば? リフォームとかすればいいのかもな?

インポッシブルなものについて考え、プロトタイプや模型を作ってみるということ重要であると感じた。建築家のすごいところは建築不可能なものについて考えて、それを実現する方法まで考えるところだ。

だいたいわたしは不安とゲームについて書いている気がする。不安とゲームが趣味なのかもしれない。

壊れていくもの

かつては、アップルの発表といえばみんなでツイッターで実況しながら明け方まで見ていたものだが、今となっては見る影もない。というのはあくまでわたしのはなしで、今でもやはりワクワクさている人はいるのだろう多分。ワクワクは良い。

なんとなく新しいパソコンやタブレットもそんなにいらないなという気持ちにここ数年なっている。今使っているものを壊れるまで使いたい。壊れないでほしい。

ガジェットは消耗し、壊れていくばかりなのが悲しい。まあ大体のものはそうなのだが。あまり詳しくないが、例えば器とかは年を経るごとに良くなっていくのだろうか。どうだろう。

消耗していくことは悲しい。例えばテフロンのフライパンだ。テフロンのフライパンは一年かそこらでコーティングがダメになってしまい、買い換える羽目になる。このアルミの塊をゴミに出して、どう処理されるのかわたしは知らない。フライパンをゴミに出す時、悲しい気持ちになる。鉄のフライパンはダメにならない。コーティングがないから。何年か前に鉄のフライパンを買ったが、今でも問題なく使える。焦げ付いても金束子でゴシゴシ洗える。こういうものを生活の中に取り入れていきたい。

スニーカーもすぐにダメになる。先日、スニーカーに穴が空いてることに気づいた。スニーカーの穴に気づくのは決まって雨の日だ。足がぐしょぐしょになるから。頑丈で靴底を取り替えられるブーツとかにすれば、長く何年も履けるのかもしれない。しかしまたスニーカーを買ってしまった。お金ないし。

労働への適応

月曜日。月曜日だけは月曜日だと強く意識せざるを得ない。アマゾンでレンタルしていた犬ヶ島の期限が今日までだったので通気中にみようと思ったけど端末へのダウンロードを失敗していて結局期限切れになってしまった。レンタル期間30日もあればさすがに観るだろというのは奢りである。先延ばし力。アマゾンのレンタルは便利で、もうだれもレンタルショップとか利用しないんじゃないかとすら思ってしまう。

犬ヶ島と一緒にあと二本借りていて、犬ヶ島が一番観たかったのだけど、おいしいものを最後にとっておいたら結局たべられなかったみたいなことになった。

差別。差別的な気持ちというのはだれしもあるものだし、素性のばれないネットとかでそういう攻撃的なことを言うのはまだ理解できるというか、納得感がある。しかしネットではない公共の場でそういうことをいうというのはちょっとよくわからない。それでもたまにふとした拍子にそういう差別的言動に出くわしてびっくりしてしまう。

労働は向いてないなとおもう。わたしは割と恵まれているとおもっていて、そんなにきつい労働をしていない。労働を信仰し、実存と労働が癒着してしまったひとがたくさんいるので、あまりこういうことは言わない。おこられるから。それでもわたしは労働がすごくいやだなと思うので労働は向いていないのだと思う。好きなこと仕事にする、とかなったらまた違うのだろうかとかたまに思う。よくわからない。でも楽しいことをやっているときも、常に心のどこかにはめんどくさいなということを考えているので、詰まるところ生きることのめんどくささみたいのが起因しているのかもしれない。適応とはなんだろう。みんなが本当のところなにを考えているかわからないし、なにを考えているか性格の記述することもでできないので結局のところわからない。

人生を損しているという感情

人生を損していると思うことがある。人々が、なにか楽しいことをしているのにわたしはそういうことをしていない、私だけ…というようなやつ。うまい例が見つからないな。

損をしている、というのは特殊な感情であるとおもう。それは欠落の一種ではないだろうか。

「まだ持っていない」というタイプの欠落、たとえば「わたしはプログラムが書けない」とかは、自分の不完全さを表しているが、それはある程度仕方のないもので、これからがんばるぞというふうにも変換できる。

「かつて持っていた」というタイプの欠落。今はもう持っていない。これもこれでつらいな。それは諦めるか取り返すかという選択肢がある。創作では物語を駆動させるために登場人物にこのタイプの欠落をもたせることがよくある。

「損をしている」というのは、かつて持っていたこともなく、そしてこれからも持たないであろうものへの特殊な感情であるように、私は思う。いわゆるキラキラした青春ではないタイプの学生時代を送っている人は、理想的な青春を所有したことがない。そしていま現在もその機会を逸しし続けている。

損をしているというのは、わたしが本来であれば得られるべきであったものを、未だに得られていない、そして得られる機会を今この瞬間も無駄にし続けているという感情ではないか。それを得られていないということは、人生全体へのある負債、ペナルティ、減点のようにすら感じる。損をしていると感じているこの瞬間も、その負債は増え続けていて、本来あるべき人間との差が開き続けている。将来的に、それを得られるかもしれないが、やはりその時点で、負債はすでに大きく、差は開いている。

結局、損をしているとい感じるということは、渇望しているそれそのものよりも、それによって得られる利益と、それの欠落によって生じる負債の差について絶望しているのではないだろうか。

損をしているとき、損を取り返さなければいけないという強迫的な感情がやってくる。今までの負債を返す一発逆転。それは危うい考え方だし、そういう感情はあまり良いものではないとおもう。価値判断ではなくて、そういう「取り返さなければ!」という感情に支配されている状態が不快だという意味で。

本来であれば得られるはずだったものとは何なのだろう。年齢や社会階層ごとのロールモデルがそういう概念を発生させる。私を、その本来性から逸脱させた要素をとても恨むようになる。

損はしていない、多様な状況と多様な選択がある、ということについてもっとよく考える必要がある。

なにかやりたいという漠然とした気持ち

冬はだいたいなにもしたくなくて、冬眠だと思いながらひっそりと暮らしている。というようなことを美容師さんに話したら全く共感されなくてびっくりした。あー…ちょっとインドアっぽくなりますよねーみたいな気を遣ったコメントをくれた。もう行かないだろう。そんな人間存在するのか。そうか。

春になると少し元気になるけど、それはそれであれで、私は何もしていないなという気持ちになる。生産。そんなわけで昨晩は unity をインストールしながらプログラミングコンテストの過去問を解いていた。突発的にそういうことをするが、べつに持続するわけではないのでまとまったスキルにはならない。つらいな。

そしてさっきまでプログラミングコンテストをやっていた。4問あるうちの3問までは解けたけど最後のやつがうまくいかなくて時間切れになった。楽しい。解くべき問題があるということは楽しい。プロジェクトオイラーという数学の問題をプログラムで解くというやつをやっていたことがあるが、プログラミングコンテストのほうがレートとかあって張り合いがある。

unity は、明日やろう。なんか急にゲームとかつくってみたくなったんだよな。別になんというわけでもないのだが。

ワンパンマンが、アマゾンプライムビデオに来ていたので一気見した。ヒーローは良い。ヒーローは好きだ。昔から。男の子はいつまでヒーローがすきなのだろうか。

2019/03/06

行為が重要であるということはわかる。なにかを考えたり表明したりすることではなく、行為が価値を決定したり新しいものをもたらしたり、人生を開いていくという漠然としたイメージはわかる。ではどのような行為が?

図書館で借りてきた本をまた読んでいた。ジジェクについて書かれた本だ。書名はずばり『スラヴォイ・ジジェク』。最初の章で、ジジェクがどれほど素晴らしいかということがとくとくと書かれていて、うわーと思ったけどそれ以降はわりとちゃんとジジェクの思想の解説をしてくれたので良い本だった。翻訳書が日本の本よりもなんかよく見えるのは、わざわざ翻訳するくらいだからそこそこのもんなんだろうという予測があるからだ。

ジジェクは、911について書いた本をよんだことがあるが、なんかよくわからないなという印象だったが、解説本を読んで興味が湧いたので『イデオロギーの崇高な対象』をキンドルで買った。

ところで書名は二重かっこ『』で記すのが一般的らしいということを最近しった。

図書館で借りた本を通勤中に読んで、読み終わったら帰りに返却ポストに投函してくるというパターンが結構良い。手元に本がなくなったらまた図書館に行って借りる。

去年の暮れくらいから読んだ本の記録をつけている。読書記録というのはどれくらい本を読まなかったかという記録だなと思う。梅棹忠夫が、読書記録をつけると自分がどれだけ本を読んでいないかわかるのでそのためにつけるといいというようなことをどこかで書いていた。

朝起きてパンを焼くこともまた行為だが、これが決定的な行為とは思えない。行為が重要であるということを考える時、そこには「ある種の」という言葉が隠れている。ある種の決定的行為が重要であり、それ以外は重要ではない。そのような行為の差別がそもそもおかしいのかもしれない。決定的行為なんてものはなくて、全ての行為が等しく重要であるというような。

生活も生存も、なんだかよくわからないままに進んでいく。みんなはよくわかっているのだろうか。

2019/03/04

雨だ。そして寒い。もうすっかり春だなと思っていたら不意打ちの雨。そして寒い。ぐんにょりした気持ちになってしまった。

最近はあまり朝が起きられない。ギリギリに起きて、慌ただしく準備をして出かける。ギリギリとはなんだろう、人間はそもそも時間通りに生きるべきではない。寝たい時に寝て目覚めたら起きればいいはずなのに。人間らしさ。

夜にまんじりともしない夜に、ふらりとコンビニに出かけてお菓子を買ったりお酒を買ったり何も買わなかったりということをたまにやる。まんじりともしない、は嘘だ、そのあと寝るからな。まんじりともしないのはもう無理だ。

雨の日はそういうお出かけができなくてつらい。

最近はあまり朝が起きられないので今日は早めに寝ようと思って、ベッドに入ってこれを書いている。そういう時間が良くないのかもしれない。つまりベッドにiPhoneを持っていくこととか。

明日は早く起きられるといい。特に何をするという気持ちでもないが、漠然と早起きは良いという気がしている。

思い立ったことをすぐやりたいと思っているができていない。思い立ったことをすぐやりたいと思い立ったけどあとでやろう。難しい。計画を立てればいいのかもしれない。英語の勉強を、ガッと三ヶ月くらい集中してやりたいと半年くらい思っている。

何者かになりたさを少しずつ減らせてきているなと実感する。何者かになろうとすること、ある種の純粋さ、純粋なものへなろうとすることは、即自存在へとなろうとしていることなのかもなと思う。それはつまり石ころになるということと同じだ。

明日の朝は早く起きられるといいな。