人生を損しているという感情

人生を損していると思うことがある。人々が、なにか楽しいことをしているのにわたしはそういうことをしていない、私だけ…というようなやつ。うまい例が見つからないな。

損をしている、というのは特殊な感情であるとおもう。それは欠落の一種ではないだろうか。

「まだ持っていない」というタイプの欠落、たとえば「わたしはプログラムが書けない」とかは、自分の不完全さを表しているが、それはある程度仕方のないもので、これからがんばるぞというふうにも変換できる。

「かつて持っていた」というタイプの欠落。今はもう持っていない。これもこれでつらいな。それは諦めるか取り返すかという選択肢がある。創作では物語を駆動させるために登場人物にこのタイプの欠落をもたせることがよくある。

「損をしている」というのは、かつて持っていたこともなく、そしてこれからも持たないであろうものへの特殊な感情であるように、私は思う。いわゆるキラキラした青春ではないタイプの学生時代を送っている人は、理想的な青春を所有したことがない。そしていま現在もその機会を逸しし続けている。

損をしているというのは、わたしが本来であれば得られるべきであったものを、未だに得られていない、そして得られる機会を今この瞬間も無駄にし続けているという感情ではないか。それを得られていないということは、人生全体へのある負債、ペナルティ、減点のようにすら感じる。損をしていると感じているこの瞬間も、その負債は増え続けていて、本来あるべき人間との差が開き続けている。将来的に、それを得られるかもしれないが、やはりその時点で、負債はすでに大きく、差は開いている。

結局、損をしているとい感じるということは、渇望しているそれそのものよりも、それによって得られる利益と、それの欠落によって生じる負債の差について絶望しているのではないだろうか。

損をしているとき、損を取り返さなければいけないという強迫的な感情がやってくる。今までの負債を返す一発逆転。それは危うい考え方だし、そういう感情はあまり良いものではないとおもう。価値判断ではなくて、そういう「取り返さなければ!」という感情に支配されている状態が不快だという意味で。

本来であれば得られるはずだったものとは何なのだろう。年齢や社会階層ごとのロールモデルがそういう概念を発生させる。私を、その本来性から逸脱させた要素をとても恨むようになる。

損はしていない、多様な状況と多様な選択がある、ということについてもっとよく考える必要がある。