人生が決まる時

新卒の就活というのはやはり重く扱われ過ぎているんじゃないかと思う。まるでそれで人生そのものが決まってしまうかのように当事者たちは捉えている。あれは採る方も採られる方もなんだがよくわからないままにやっていて、適正テストだのSPIだのよくわからないものに踊らされてリソースの無駄遣いと意味のない人格否定が跋扈している悪夢のような現象だ。わたしの経験でしかないけれど、転職のほうがやってきたこととできることとできないことが明確なので双方がよくわかったうえで決まっていく。シンプルだ。

新卒就活に限らず、なにか大きめのイベントで人生が決まってしまうかのように錯覚することは多々あり、そう錯覚するように仕向ける者がいることも事実だ。人間の性質としてそういうけじめのようなもの、わかりやすい区切りを求めていると言う側面もあり、人生の現在のありようをある決断や行為に集約しようとするのかもしれない。また別の側面として、そういうふうにしておくと、つまり新卒就活が人生を決めるほど重大なものであるということにしておくと人間の行動をコントロールしやすいという邪悪な意思もあるだろう。

ところで人生は決まるものなのだろうか。この比喩表現はたまに耳にする。実際に、人生が決まったとして、そのあとの人生はどういうふうに進んでいくのだろうか。決まってしまった後の人生においては無意識にぼーっと、なされるがままにやっていっても、決まった結果に収束するのだろうか、もしくは必死に頑張ったとしても同様に決まった結果に収束するのだろうか。「決まった」と過去形を使うのだから、その後の行為は人生に対して決定的ではなくなるのだろう。

似た表現に、「人生が終わった」といのがある。むしろこっちのほうがよく聞くかもしれない。終わったあとの人生とはなんなのだろうか。終わったとしても人生は続く。もしくは人生がなんらかの絶望的な結末に向かって決定した、ということだろうか。こっちの考えのほうがしっくりくるかもしれない。絶望的に決定してしまい、その後の行為は絶望を回避不可能であるという状況、それは不幸だ。

つまり要するに、人生は決まったり終わったりする性質のものではないということだ。逆に言えば、人生が決まったり終わったりするものであればもっと人間は救われていたのになあ。わたしはメンタルが最悪のとき、朝起きてまず思うことが「人生がまだ終わってなかった」ということなのだが、それはつまり終わっていればよかったのにという救いの希求なのだろうとおもう。