今日食べたもの

熱湯に20秒ほど通し、氷水につけると皮がずるっと剥けるというのでやってみたらうまくできた。 最初にてっぺんに十時に切り込みをつけておくのがよい。 こうやって剥くとまるかじりできる。桃は料理にもいろいろ使えるらしいが、どうにも高級品という感じがしてもったいなくてそのまま食べてしまう。

枝豆

近くの八百屋で房で280円で売っていた。ハサミで一つ一つ外して茹でた。 食べ始めると止まらなくなってしまうが食べきれないほどあったので止まった。

すいか

2ヶ月ぶりくらいにジョギングしたらシャワーを浴びても汗が止まらなくなってしまい、ふと冷蔵庫にスイカが残っていることを思い出す。 大きな塊にかぶりついて行儀悪く食べるのが好きだ。

図鑑のように見つめること(「なぜ植物図鑑か」感想)

本が読める程度にだるかったので今日は本を読んだり寝たりしていた。 昼下がりくらいに郵便屋さんがきて、アマゾンで注文していた本をコトンと投函していったのが良かった。

中平卓馬という写真家の映像論集を読んだ。

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

中平卓馬はもともと「アレ・ブレ・ボケ」の作品をつくっていた。ピントがボケてブレブレで何が写ってるかわからないような写真を撮っていた。彼はある投書にて「あなたの写真から詩が失われている」というふうな批評をうける。表題作の「なぜ植物図鑑か」はその投書へ返答である。

けっこう難しいことを言っているのだが、ざっくりと要約してみよう。

芸術家が確たるイメージを持ち、それを技術によって作品として外化する時代は終わった。芸術家が世界の中心である、あるいは世界は私であるといった近代の観念は崩壊し始めていると彼は言う。そして彼は新たな表現の出発を以下の様に宣言する。

世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それが我々の芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。だが此岸と彼岸の混淆というまやかしがすでに歴史によって暴かれた以上、その敗北を絶望的に認めるところからわれわれが出発する以外ないことは、みずから明らかなことである。

人間が特権的ではないということを認め、世界のあるがままを描くような芸術では詩を排除しなければいけないということらしい。

そのようにして歩み出す新しい芸術、新しい仕事を彼は「植物図鑑」と名付けた。図鑑は収録されているものを特権的に扱いはせず、ただ並べる。ゆえに図鑑は詩や曖昧さを受け付けない。というような理屈らしい。

実際に彼の写真が年代を減るにつれてどう変わっていくのかとかはよく知らないので近々図書館で写真集を探してみようと思う。

本には表題作のほかにも映像や芸術に関するテキストがたくさん収録されていて、読み応えがあって楽しかった。パリのビエンナーレに参加したけど展示していた作品が邪魔だからどけろと言われ、挙げ句の果てに作品を破かれ、ブチ切れて帰ってきた話とか、ゴダールまじ最高ってずっと言ってたり、芝居はほとんど見ないけど寺山修司は話すとすごい天才なのであいつはすごいって言っていたり、時代を生きた芸術家という感じがとても良い。

最後にわたしにとってショッキングなメッセージであった部分を引用して終わりにする。

要するに私はグラフィズムの中の一切の性が否定され、超克されねばならぬものと考える。何故なら性はあくまでも個人的で、直接的なものでなければならないはずだから。たとえ今、性が歪められ、ディストートされたものであるとしても、その現実から出発するしか方法はない。その現実を忘れさせ、衛生性と公共性という美名の下で性の解放をあたかも達成されたかのように提示するめくされグラフィック・セックスを粉砕せよ。性とはやることであってけっして見ることではない。網点の中の百万のグラマラスな女体より、一人の扁平でがに股の他ならぬこの女をやってやってやりまくれ。

「悪童日記」感想

アゴタ・クリストフの「悪童日記」を読んだ。kindle でセールしていたので。 感想などをなんとなく書いていきます。

作中では明言されないが、第二次大戦末期から戦後にかけてのハンガリーが舞台である。 主人公は双子の男の子。都会から田舎の祖母の家に疎開し、様々な問題にぶつかりながらも力強く生きていくという感じだ。

物語は、双子によって書かれた日記という体になっている。そして日記には彼ら自身が決めたルールがある。

ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない

このルールによって書かれたこの物語は、無機質で淡々とした印象をもつ。そして事実のみで記述される双子の行為、成長は、読み進めるほど恐ろしさを増していく。

この事実のみを書くという行為は、戦争におけるロマンや物語性と相反するものだなとおもった。それらは主に戦争に人を駆り立てるために使われる。 去年大ヒットした「この世界の片隅に」で、玉音放送の直後にすずさんが嗚咽するシーンがある。たくましく生きるすずさんも戦争の物語に支えれていたという驚きがあり、そして物語がなくなったあとも変わらず続く日常を生きていく後のシーンに繋がっていく。 これとは対照的に悪童日記の双子は、戦争そのものに何も見ていないように感じる。戦争が作り出したこの状況を生き抜くことを常に考えている。 二人はお互いを鍛え合うことによって、肉体的精神的苦痛に堪えられるように訓練している。

こんな練習をしばらく続けて、ぼくらはほんとうに、何も感じなくなる。痛みを感じるのは、誰か別人だ。

いく度も繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。

痛みや意味や物語を拒絶していくこと、事実のみを見つめること、それらを自分の意思で選び取り、訓練し、体得し、実行する。 まあ、なんだ、そういう感じが良かった。

ラストシーンについても書こう。いやネタバレになるのは嫌なので具体的には書かない。ラストは唐突にやってくる。突き放すように終わる。 わたしはそういう終わり方は結構好きで、そのような選択をした二人の心情について考えたり、その後について考えたりする。終わりが唐突なぶん、こちらが勝手に考える余地があって楽しくもある。 どっこいこれは続編があってしかも3部作であるという、さっきの余韻はなんだったんだという気持ちになった。続編はまだ読んでいない。

何気なく検索していたら映画化もされていて、しかも Netflix で見れた。映画でもやはり日記のルールが宣言され、そのように作られていた。原作に敬意を払った誠実な作品であると感じた。それはつまり退屈であるということでもあるのだけど。

ハンガリーの町並みなどは、私は想像できないので映像でやってくれるのはとてもよい。また役者の演技によって付け加えられるもの、そういったものも、過剰ではなく、しかし彼らの人間性を伝えていてよかった。

ポストevernote

かつて evernote というサービスがあったが1年ほど前に事実上の死を迎えてしまった。
データのサルベージはあとでやるとして、とりあえず思いつきメモを投げる先が必要とされていて、いろいろやった結果 google keep に落ち着いている。
メモサービスというのはたくさんあって、たとえば simple note とか、まあどれも結構いい感じなんだけどもうログイン情報を増やしたくないというか、考えるのがめんどくさいから google でいいやという投げやりさがある。
それはともかくとして google keep は適度に多機能で適度にシンプルでいいところをついている。問題は作成日付が目立たないところで、カレンダーっぽく表示してくれたりするとさらに良い感じだとおもう。

麦茶サイクル

暑いので麦茶の消費が激しい。2Lの容器で作っているがあっという間になくなってしまう。そしてコップに注いだ麦茶はあっという間にぬるくなる。麦茶容器をうっかり出しっぱなしにしてもやはりぬるくなる。ぬるい麦茶は飲みたくない。

今年の冬に買ったサーモスの真空断熱魔法瓶に氷をいれて、麦茶をいれておくとぬるくならない。たぶん12時間くらい保冷してくれる。すごい。買っておいてよかった。今は収入がないのでこういう無駄遣いはできないので、先に買っておいてよかった。買ってよかったのものだ。

2Lの麦茶容器と、1Lの魔法瓶で麦茶サイクルができた。容器が増えたことで裏で麦茶を作ることもできるようになった。快適な生活だ。

実際のところ別に麦茶の話なんて全然書きたくなくて、もっとなんというか身のある、誰かの役に立ったり、誰かから興味を持たれるようなことが書きたいという気持ちがある。例えばこないだ読んだ悪童日記という小説がおもしろく、さらにNetflixに映画版があったのでそれも見たのでそういうのの感想とか書きたい。まあ麦茶も重要なんだけど。

肉をたべるやつやった

今流行りの肉を大量に食べるやつやりました。

にく

にく

にく

かなり赤くて不安が感じられる写真ですが、現場でもそのような声はありましたが、結果として問題はなかったです。

あと調理中の待ち時間にゾンビのアナログゲームやったのですが、その時は気づかなかったけど今考えるとすごい組み合わせです。

にく

にく

曜日が消失していた

書類をやるのを2週間くらい後回しにしていて、いい加減やるかということで手をつけた(偉い)

書いて、必要な添付書類を封筒に詰めたら結構ぎゅうぎゅうな感じで、82円で遅れるのってどれくらいまでなんだろうと不安になったので郵便局に行くことにした。

ら、郵便局は閉まっていた。わたしの中でもう曜日がそれほど意味を成してなくて、休日は郵便局がやってないという想定をしてなかった。

仕方ないのでその足でセブンに行き、82円切手とアイスコーヒーを買い、この82円切手というのがいつも何円だかわからなくて迷う、封筒を作り投函した。

ずっと放置してきたタスクが片付いたので良い日だった。