図鑑のように見つめること(「なぜ植物図鑑か」感想)

本が読める程度にだるかったので今日は本を読んだり寝たりしていた。 昼下がりくらいに郵便屋さんがきて、アマゾンで注文していた本をコトンと投函していったのが良かった。

中平卓馬という写真家の映像論集を読んだ。

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)

中平卓馬はもともと「アレ・ブレ・ボケ」の作品をつくっていた。ピントがボケてブレブレで何が写ってるかわからないような写真を撮っていた。彼はある投書にて「あなたの写真から詩が失われている」というふうな批評をうける。表題作の「なぜ植物図鑑か」はその投書へ返答である。

けっこう難しいことを言っているのだが、ざっくりと要約してみよう。

芸術家が確たるイメージを持ち、それを技術によって作品として外化する時代は終わった。芸術家が世界の中心である、あるいは世界は私であるといった近代の観念は崩壊し始めていると彼は言う。そして彼は新たな表現の出発を以下の様に宣言する。

世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それが我々の芸術的試みになるだろう。それはある意味では、世界に対して人間の敗北を認めることである。だが此岸と彼岸の混淆というまやかしがすでに歴史によって暴かれた以上、その敗北を絶望的に認めるところからわれわれが出発する以外ないことは、みずから明らかなことである。

人間が特権的ではないということを認め、世界のあるがままを描くような芸術では詩を排除しなければいけないということらしい。

そのようにして歩み出す新しい芸術、新しい仕事を彼は「植物図鑑」と名付けた。図鑑は収録されているものを特権的に扱いはせず、ただ並べる。ゆえに図鑑は詩や曖昧さを受け付けない。というような理屈らしい。

実際に彼の写真が年代を減るにつれてどう変わっていくのかとかはよく知らないので近々図書館で写真集を探してみようと思う。

本には表題作のほかにも映像や芸術に関するテキストがたくさん収録されていて、読み応えがあって楽しかった。パリのビエンナーレに参加したけど展示していた作品が邪魔だからどけろと言われ、挙げ句の果てに作品を破かれ、ブチ切れて帰ってきた話とか、ゴダールまじ最高ってずっと言ってたり、芝居はほとんど見ないけど寺山修司は話すとすごい天才なのであいつはすごいって言っていたり、時代を生きた芸術家という感じがとても良い。

最後にわたしにとってショッキングなメッセージであった部分を引用して終わりにする。

要するに私はグラフィズムの中の一切の性が否定され、超克されねばならぬものと考える。何故なら性はあくまでも個人的で、直接的なものでなければならないはずだから。たとえ今、性が歪められ、ディストートされたものであるとしても、その現実から出発するしか方法はない。その現実を忘れさせ、衛生性と公共性という美名の下で性の解放をあたかも達成されたかのように提示するめくされグラフィック・セックスを粉砕せよ。性とはやることであってけっして見ることではない。網点の中の百万のグラマラスな女体より、一人の扁平でがに股の他ならぬこの女をやってやってやりまくれ。