寝不足と体調

一昨日はなかなか眠れなくて、さらに悪夢にうなされたり金縛りになったりで翌朝5時に起きてしまった。

その日は色々とやることがあってそのまま活動してたんだけど、午後くらいからなんだか手が震えるというか、不思議なだるさのようなものがやってきて、色々食べたりしたけど変わらずで、夜の9時くらいにベッドに入った。

相変わらず眠れなくて、でもしばらくしたら寝て、翌朝は元に戻っていた。睡眠大事。

無題

ブログは飽きる。というかたまになんとなく書きたくなってしかし続かない。飽きっぽいのですぐに乗り換えて、色々なところに書いている。なんだが何も考えずに何か書きたいという気分だったのでまた新しいブログでもタンブラーで作るかという気持ちだったけどまあべつにどこで書いてもいいかと思い直した。最近のことを書きます。ゲームはわりと応援の意味も込めてシーズンパスまで買うのだけど、いざDLCが出たころにはなんとなく飽きてるのであまりやらないということが頻発する、ゼルダとか。でもゼルダは二週目も楽しいらしい。Netflixの無料会員になったのはリトルウィッチアカデミアが見たかったらで、やはりtriggerのアニメはクソ面白いなあと思いながら一気見した。Netflixはアプリの作りもよくできていて、独占配信も多い、今期だとカケグルイがそうらしい、でも独占配信だった幼女戦記がアマゾンプライムビデオで配信されるそうなので結局は時間の問題なのかもしれないと思う。アニメだとフリクリの続編が発表されて、まあ期待しないで待とうという気分になった。ゲームとか、発売までに情報収集をしてわくわくしながら待つということをしなくなって、発売日にみんなが騒いでるのをみて、あーあれ今日かーとおもってDLで買うという感じになっている。むしろこれは前情報なしでプレイできるので楽しめるとも言える。その逆に、Steamに200本くらい積んでるゲームがあり、ほとんどがバンドルでかったインディーなんだが、そういうのに手をつけるために当該ゲームについて調べるということはある。書きたいこと。書きたいことというのはたくさんあり、このあいだサルトルの嘔吐を読んだのでそれの感想というか、カミュとの対比とかを書きたい。時間の記録をつけるという習慣が今年になって定着したので引き続きやっている。フルタイムで働いても1日に集中できる時間は5時間くらいということがわかっている。きょうはサーバーをいじっていて、nginx と uWSGI を設定して昔の flask で書いたやつを動かしたりして遊んでいた。サーバーというかネットというかの仕組みが全然わからない。時間を測るのは良くて、1日5時間くらいやると罪悪感なく遊べるし寝れる。

ライトニングトークという文化

先日、やっていき場というところに行ってきた。 もくもく会とかコワーキングスペースとか作業場とか、そういう感じの場所で、なんとなくひとが集まって作業をやる場所で、わたしもふらりと立ち寄って勝手に作業していた。良い空間だった。

その日は月報会というテーマをやっていて、ともかくなんでもいいから各人の個人プロジェクトの進捗を発表しようというものだった。 こういう短い発表をライトニングトークというらしい。わたしはそういうのやったことなかったし要領もわからなかったけどなんかゆるそうだし前日に30分くらいでスライドをつくって適当に最近やっていることとかを発表した。

雑に発表するのでも、自分のなかで一区切りになって整理がつくし、ひとの発表をきくとモチベーションになるし、興味がなければ聞き流すしと、ライトニングトークとは良い文化だ。自意識と自己顕示欲が効率的に結実したシステムという感じがする。ITエンジニア界隈の文化だが、もっと広く普及してほしいとおもった。かといって義務になるとそれはそれでだるいな。

圧倒的労働

朝の品川駅は人が多い。改札を出るとアーチがかった太い道が左右にのびており、人が流れている。立ち止まっているひとはほとんどいない。わたしは歩くのが遅いので、わたしの左右を人がすり抜けていく。港南口を出ると、流れは綺麗に何本かに別れ、一部はビルや階段に吸い込まれ、他はまた歩道を流れ続ける。

このたくさんの人間は仕事をするためにやってきている。このたくさんの人間の一人々々に仕事がある。その膨大な仕事の総量を考えると目眩がする。今日だけではない。明日も明後日もずーっと仕事がある。膨大な人間が膨大な仕事にとりかかり、それでも終わらないくらい仕事がある。

わたし一人の問題として考えてみれば、わたしは日々の糧を得られるだけ労働に従事すればよい、それはそれで絶望的だが、捉えることができる労働だ、かろうじて闘うことができる労働だ。しかし品川駅港南口のこの流れとうねり、これもまた労働が形作るものであり、こちらは圧倒的だ。圧倒的労働、地獄のように感じる。不安。

つい、素朴な社会について思いを馳せてしまう。こんなふうにならない未来もあったのではないか、もっと素朴でシンプルで牧歌的な社会、進歩を拒絶し、人間が人間らしく営むだけでよい社会、曖昧で都合のいいイメージを考えてしまう。

いったいどこからこんなにも仕事が湧いてくるのだろう。彼らが、というか私たちが行う仕事は、ざっくりといって社会をつくっている。ケータイが繋がったり、電車が走ったり、Amazonからゲームが届いたりする。膨大な人と膨大な仕事により今日も社会が作られ、支えられ、持続している。

わたしがさっき直感で思った救い、素朴な社会というのも可能性としてはあっただろう。しかしわたしたちは社会をつくらねば生きられず、発展しなければ生き残れなかったのだろうし、結局これしかなかったのかもしれない。

ともあれ、わたしが最初に感じたどうしようもない絶望と不安はかなり弱まった。わたしには彼らの歩みが無への行進のように感じられたが、そうではないと勝手に自分で納得したからだ。

 

 

 

 

寝てた

よく寝た。

そもそも最近すこし生活リズムがずれてきているのでちょっくら早寝するかということを昨日の夜におもった。

別に働いていないし何もないので生活リズムがどうなろうといいんだけど、昼夜逆転は死に近づいている気がする。

まあそんなわけで昨夜は21時くらいに寝て、途中何度か起きたり、曖昧に動いたりしたけどなんだかんだで起きたら20時だった。

やっていること

無職なのでなにもしていない、というわけでもなく一日1〜3時間くらい作業をしている。

なにをやっているかというとコードを書いている事が多い。プログラムというのは手軽で、とりあえずパソコンを開けば書き始められるし、コンパイルするかテスト回すかすれば結果が返ってくる。毎日書いているので作業の取り掛かりへの心理的障壁も下がってきている。すごい。

秋の文フリを申込んだので、書かねばいけないのだが、こちらはとにかく本を読んで付箋を張って気になったことをカードに書き出すという作業なので、紙とペンと本と机が必要で、めんどくさくて後回しになってしまう。

パソコンはパソコン単体で作業が完結するという点においてやはり素晴らしい。しかし文章を書くという行為で、パソコンを使うのは比較的終盤で、そこまでは紙とペンでうんたらかんたらやることが多い。プログラムにおいてはテストというもので挙動を定義できるのも良い、あれは頭がスッキリするし、安心感がある。コードを書くように文章がかければいいのに。

あと自己嫌悪についての話。なにもしないで一日が過ぎてしまうと寝る前とかにものすごい自己嫌悪に襲われて健康にわるいことが知られている。 かといって作業してみるもそんなに集中力が続かなくて、進捗もでなくて、えっこれだけかよ…ってなってやっぱり自己嫌悪するので、まあまあで自分を許してあげることが大切なのだとおもう。

他者の語りを聞く事とそこから得られるもの(などない)

しくじり先生というテレビ番組がやっていて、作業がてらに流していたのだが、実に不快だった。

物語というもの、とくに人間が自分の経験を筋道立てて語るという行為に不快感というか、疑いというか、ネガティブなものを感じる。語ることは楽しいし、コミュニケーションであるし、いわばゲームなので、例えば酒をのみながら適当に交互に語るというのは私も楽しむが、シラフで滔々と語られるのはつらくなるものがある。

事実は捏造できないし、検証可能だが、事実を恣意的に配置することはできるし、語りはいくらでも騙れる(うまい)。事実を並べてその間と裏側を語り、今の自分の接続するという行為は自己満足でしかない。そのようなものを聞いても、いままさにつらい私には何の役にも立たない。わたしにできることといえば語り手が気持ちよく語り終わることをサポートするくらいだ。

そのような語りから無理にでも何かを得ようとするならば、いずれ私も語ることが可能であるという欺瞞だけだろう。わたしも今のつらさをどうにか乗り越え、生き延び、そして一角の人物になれば、あのように語ることができる。そのときわたしの今までのつらさはすべて昇華し、わたし自身の根拠となるだろう。そのような救いの可能性を、欺瞞の救いをみることができる。

実際のところそれが求められているものなのだろう、わたし達はいずれ気持ちよく語れるというよくわからないご褒美を待っている。そこに到達できたものは存分に語り、そのために経験を溜め込む。そこに到達できないことを、あるいはそのときに何も語れないことを恐れる。 そんな日曜日の深夜でした。