遅すぎるということはない

月並みな言葉だが、遅すぎるということはない。このことをよく理解したいし、何歳になっても身軽に新しいことを始められる人間になりたい。

現実をみることはつらく悲しいことだ。現実というのは体重計とか預金残高として現象する。現実をみて、それに対してなにか行動を起こすことも大変なことだ。とても元気があるときしかできない。

現実を見ないで、なにもかも手遅れだとおもうことが楽で、しかしそれはだんだんと精神を悪くしていく。

なにか新しいことを始めたとき、なぜ今までそれをしてこなかったのか、もっと早く始めていればもっと良い現在となっていたのになあという謎の罪の意識ようなものが発生する。賢者は昨日から始めているらしい。卑屈な諺だ。私の明日が賢者の昨日なのだくらいの心持ちでやっていきたい。

遅すぎるということはない、という考えはすべての時点の行為を肯定する。テスト前日や、直前の五分休みに勉強を始めたとしても、おそすぎるということはない。強めの肯定をもっていきたい。

他人を否定することによって心の安定を得る技術があり、容易に習得可能であり、そういうひとによって植えつけられた意味もなく否定的な道徳はさっさと捨てたほうがよい。

遅すぎるということはない。