映画における鑑賞と批評の距離

今日はララランドを観ていたのだが途中で寝てしまった。レンタルで明日までなのでもう一回ちゃんと観るか迷っている。ラストシーンだけ起きて観たんだけど当たり前だけどわけわかんなかったんだよね。明日の朝作業しつつ観なおすかー。

ところで映画を観た後にツイッターで感想を検索したり、考察や批評を読みたくなってしまう。あるいは友人と一緒だったならばすぐに語りたくなってしまう。

しかしそれはちょっと一旦やめたほうがいいんじゃないかなとわたしは思う。映画を観た後の、感想や感情が定まらず、もやもやとしたあの感じ、あれは心地よくも気持ち悪くもあり、さっさとどこかに着地してしまいたくなる。 その不安感が私を語りへ、つまり作品について語られたものへの欲求となるのかもなと思う。

だれかの感想や批評というのは着地先として安心感がある。もちろん私は、他者の感想を自分のそれに忍ばせよう、拝借しようということは考えてないが、狡猾にそれは行われる。

私は映画によって与えられたは輪郭の不安定な感想以前のものをすこしずつ自分で言葉にしていかなければいけないのだと思う。その作業は実際には何年もかかり、ある時ふと、あの映画のあのシーンはこういうことなのかもな、あのときのひっかかりはこれなのなのかもなと気づくときもある。

だから、映画を観た直後の最も不安定なもやもやを粗末に安直に扱ってはいけない。