生存コスト

昨日は図書館にいった。まず家にて借りている本をリュックにつめて、図書館カードがちゃんとあるかを確認してから出かけた。
図書館につくとまず本を返し、借りたい本を探して、さらにリクエストカードを書いた。すると図書館カードを持っていないことに気づいた。ポケットの中にもリュックの中にもにない。家で確認したあとにそのままテーブルに置いてきてしまったのだ。

笑い話のようだがこういうことがよくある。大人の ADHD というのがここ数年で広く知られるようになったが、多分わたしもそういう傾向があるのだろう。そういえばこの前は電車に登山靴を忘れた。あんなでかいものをどうやって忘れるのだと思うが、忘れるときは忘れてしまう。なるべく気をつけてはいるが、全てを防ぐことはできないし、もうこれは生存のための必要コストだと割り切っている。鍵やメガネがなくて出かけられないだとか、ネックウォーマーを2つも3つも持っているだとかは、もうわたしが生きていくための必要コストで、支払わねばならないものだと思うことにしている。登山靴はけっこう高いものだし、そのすぐ後に山にいく予定があったのですごく落ち込んだけどまあ仕方ないよなともおもった。その後見つかったので飯田橋まで取りに行ったけど、そういう時間とか交通費とかも生存コストだ。ありがとう JR、ありがとう警察。

「自分の小さな「箱」から脱出する方法」感想

いわゆる自己啓発本? というやつで、こういうのを読んでいるというのはちょっと恥ずかしいので、ネットで評判がよかったとか、図書館にたまたまあったとかつらつら言い訳を書こうかとおもったけどそれはそれで微妙だなとおもった。

管理職の主人公が上司とミーティングをして、自己を啓発していくという感じの物語仕立てになっていて、なんでこう物語にするのが好きなのだろう、かったるくて仕方がない、かったるいので結局読み切っていない。読んでいない本について語ることは良くないという意見がありますが、わたしもそう思います。

めんどくさい物語をすっとばしてぱらぱらとページをめくるとこの本が言わんとしていることがわかりやすくまとまっている図があったのでさらにざっくりと要約すると

自分が他人のためにすべきだと感じたことに背く行動をする → その行動を正当化するような自己欺瞞をする → 自己欺瞞のもとに世界をみるようになる(この状態を箱に入っていると呼ぶ)

ということらしい。なるほどー、あるあるー、すっぱいぶどうみたいなやつだ。そんでその箱から出る方法はどんなんなのだろうとまた最後のほうまでページをめくってみる。箱の外に出る方法は「相手を一人の人間として尊重すること」とのことだ。もう少し詳しくいうならば、「箱の外の人間関係(会社の同僚とか)」への接し方を「箱の中の人間関係(奥さんとか)」に適用してみようということらしい。なるほどー、親しき仲にも礼儀ありという感じだ、わたしも言われたことあるよ。内容についてはそんな感じでした。人間を尊重しましょう。

ところでなぜこの本は、エリート管理職とその上司のミーティングという物語を採用しているのだろうか。この箱から脱出する方法は、あたかも上司の経験則から導き出されたかのように語られる。上司自身が自分の若いころの失敗談を話し、わたしはこうして失敗を乗り越えた、君もそうするといいという感じだ。なぜ専門家によるカウンセリングではないのだろうか。ここにターゲットとする読者層への配慮のようなものが感じられる。

この本のターゲットは「社会不安障害に悩む無職」ではなくて、「バリバリ働く管理職」なのだろう。ある程度成功している人間がさらに成功する為の方法だ。本の冒頭に監修者による前書きがあるのだが、ベンツを乗り回しているお金持ちにも悩みはあるみたいな薄っぺらいエピソードが書かれており、一体なんなんだこいつはという気持ちになったが、それに共感できるような人に向けて書かれているのだ。

そんなわけでカウンセリングを受けるとか治療を受けるというのは彼らの自尊心を傷つけてしまうので、上司とのミーティングという形をとっているのだろう。

箱に入ってしまう行動の発端が「自分が他人のためにすべきだと感じたことに背く行動をする」というのも気になるところで、自分の直感的な道徳感覚についての反省はここには見られない。むしろ、直感的な道徳感覚に背いたからこそ自己欺瞞に囚われてしまっている、本来の自分の在り方からずれた状態にある、という現実への解釈なのではないか。ここに自分の直感への信仰が見られるとわたしは思う。自分の現在を自己欺瞞的であると自認しながらも直感の正しさは揺らいでいない。

だから逆に言えば、直感に従い、他者を尊重すれば真の認識に立ち戻ることができ、仕事はうまくいき、チームはガンガン成果を出し、会社の業績もアップして、あっという間に昇進できる。これもまた自尊心への配慮である。彼らは本質的にはなにも間違っていない。彼らは本質的に正しく、一時的な欺瞞にいるのであって、本質へと戻ることができれば、その本質の正しさにより成功が約束されていると言っている。

いまわたしは難癖をつけている、さきほど「言っている」と断言したが、最初に書いたようにわたしはちゃんと本を読んでない。つまりようするに気に入らないのだ。偶然運が良かったから成功できた人間が、肥大した自己肯定感と直感を振り回すこと、それを反省している振りをしながらも、結局のところ直感への信仰を強化していること、そういうことが気に入らない。あとこれは自己啓発本によくあることなんだが、成功というのが資本主義的なものに設定されていることもわたしは嫌いだ、労働者を対象にしているにも関わらず。

ということで、「自分の小さな「箱」から脱出する方」おすすめです。

Apple Watch がへたってきた

初代 Apple Watch を持っている。たしか 2016 年に買ったので、だいたい2年くらい使ってるのだが、最近バッテリーがへたってきた気がする。

そもそもバッテリーは 1.5 日くらいしか持たない。それでも夜寝るときに充電して、朝起きたら着けるというルーチンが出来ているので、特に不便はなかった。しかし最近は朝 5 時くらいから活動していると 22 時くらいで残り10パーですと言われてしまう。夜ジョギングをしていたら途中でバッテリー切れをしたこともあり、若干の不便さを感じる。

普通の時計なら修理や電池交換をすれば何年も何十年も使える。タンスの奥から出てきた時計を修理してもらってまた使うなどもできる。わたしは爺さんの形見の懐中時計というエモいアイテムを持っているが、これも電池を交換したら普通に動いている。そんで、まあ当たり前なんだが Apple Watch はこういうことができないんだなあという悲しい気持ちになった。

Apple Watch だけではなく、スマホもパソコンも、とにかくガジェットというのはどうしようもなく消耗品なのだ。

遅すぎるということはない

月並みな言葉だが、遅すぎるということはない。このことをよく理解したいし、何歳になっても身軽に新しいことを始められる人間になりたい。

現実をみることはつらく悲しいことだ。現実というのは体重計とか預金残高として現象する。現実をみて、それに対してなにか行動を起こすことも大変なことだ。とても元気があるときしかできない。

現実を見ないで、なにもかも手遅れだとおもうことが楽で、しかしそれはだんだんと精神を悪くしていく。

なにか新しいことを始めたとき、なぜ今までそれをしてこなかったのか、もっと早く始めていればもっと良い現在となっていたのになあという謎の罪の意識ようなものが発生する。賢者は昨日から始めているらしい。卑屈な諺だ。私の明日が賢者の昨日なのだくらいの心持ちでやっていきたい。

遅すぎるということはない、という考えはすべての時点の行為を肯定する。テスト前日や、直前の五分休みに勉強を始めたとしても、おそすぎるということはない。強めの肯定をもっていきたい。

他人を否定することによって心の安定を得る技術があり、容易に習得可能であり、そういうひとによって植えつけられた意味もなく否定的な道徳はさっさと捨てたほうがよい。

遅すぎるということはない。

日記

日曜日に登山に行き、足が筋肉痛で動けないだの雪だのやってたら親戚イベントがあったりして気づいたら木曜日だった。いや、気づいていたけど。特になにもしないまま日々が過ぎていくのをちゃんと気づいていたけど。 というわけで今日はゴミ出しをして細々としたタスクをこなした。以前からすこし気になってた本をカーリルで検索したら近くの図書館にあったので借りるなどした、この本はあんまり面白くなかったけどあとでブログに書こう。ブログ、なんかブログ書こうと思ったけどあんまりうまくいかなくて、結局思いつくままに日記を打っている。タスク管理はいろいろ試した結果 trello が良くて、なにが良いかというとうわー!ってなったときにボードごと削除してなかったことにできるところが良い。タスク管理はしっかりやってるわけではないけどなんとなく思いついたときとか状況が混沌としてきたときにボチボチと打ち込み、整理している。 そしてまた明日がやってくる。緩やかな退屈と緩やかな忙しさに、つまり生活に殺される。

Twitter 投稿専用クライアント Faster Than Think

twitter に投稿するだけのアプリをつくりました。

そしてこれは欲しいものリストです。

おすすめ設定

  1. アイコンをタップすると設定画面が出ます
  2. “POST WITH” → “Return” を ON にします
  3. 改行入力で POST するようになります。

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経緯

ツイッター公式アプリの投稿画面ってだるいじゃないですか。具体的にはツイートしたあとに投稿画面が閉じてしまうのがだるい、あといちいちボタンをタップするのがだるい。タイムラインをだら見したいときと他人には興味がなくてとにかく連投したいときがあって後者のときためのアプリです。

ツイッターというものが流行りだした時、やっていることは本質的にはブログと変わらないのに140字という制限がついただけでこんなにも体験が変わるのかーとか、テキストしか投稿できないのでいろいろ工夫したりとか楽しかった気がするけどいつのまにかゴテゴテした広告とクソリプにまみれたものになってしまっている気がする。わたしとしてはみんなが脳みその中身を垂れ流すみたいのが好きで、深夜に突然エモくなったり、極稀にしかつぶやかない人が意味深なことをつぶやいたりするのが好きで、そういう、そういう世界観を、リッチなのはもういい。そういう愚痴です。

ブログは誰にも向けて書いていない

ひさしぶりにブログでも書こうかと思い、つらつらと労働に関するこじらせをついさっきまで綴っていたのだが止まってしまった。うすうす気づいていたのだが、わたしはブログというものを誰にも向けて書いていない、いわば長い独り言だ。これは誰かにむけて文章を書くときに痛感する。去年文フリで出した本も、ある程度書きたいこととや到達したいところや伝えたいことがあったのでブログよりもぐいぐい書けていたとおもう。それにくらべてブログというのはどこにも向いていないという感じがある。あるいはどこかに向けるのがこわいのかもしれない。まあそれがいいとか悪いとかいう話ではなく。