圧倒的量について

今日は調べ物をしに図書館にいった。端末にワードを入力し、ずらっと並んだ本のリストから良さそうなものを選ぶ。本棚を見ながら、ものすごい量の本があるなと気づいた、しかもすべて無料だ。図書館なのだからそれは当たり前なのだけど、その膨大な量はわたしを不安にさせた。

自分に関する量を漠然と思い浮かべてみる。読書量、一日の作業量、仕事量、書いた文章の量、コードの量、勉強の量、経験の量。図書館の本の量に比べるとどれも僅かだった。しかもそれは時間が有限であるがゆえというよりも、わたしの怠惰の結果だった。時間をもっとなんらかの量に変換していれば、わたしも今頃はなんらかの分野において人に誇れるような量をもっていたのかもしれない。

例えば太宰治について調べようとおもい、人間失格だけ読んで満足してしまうのは恥ずべき愚かさだとおもう。そういう類の怠惰さが、わたしの量となっている気がした。

質は幻想で、量だけが事実なのかもしれない。

真面目に生きよう

真面目に生きようと突然おもった。

思ったからといって今までのことが帳消しになるわけでも明日から急にしゃっきりするわけでもない。決意や感情でなにもかもが変わってくれればいいのになあとおもう。まるっと忘れてキラッと生きたい。

しかしまあそんなことはないわけで、ぐだぐだと良かったりダメだったりな日々を過ごすしかない。そのなかで小さな変化や実績を積んでいく。わたしにしかわからないし、自慢できるようなことではないが積んでいく。自己肯定を。

台風と胃もたれと寝不足

例によって低気圧が苦手です。つまり台風なのでだるい。雨のあとのすごくいい天気とかもだるかったりするので、低気圧そのものというよりは気圧の変化に弱いのかもしれない。

あと昨晩ふと vita でディスガイア4を初めたら徹夜してしまって寝不足である。

あと昼に中華料理屋で油淋鶏と炒飯を食べすぎて胃がもたれている。”胃がもたれる” という表現はよくよく見ると独特で、つまりどういうことなのか字面から伝わってこないな。私が感じる胃もたれは要するに胃が動いてなくて内容物がそのまま残っているという感じだ。胃が動いていない感覚というのは私も16歳くらいのころはわからなかった。悲しみがある。

胃が動いてないといろいろと不調が発生し、全体的にだるくなり風邪っぽくもあるが風邪ではなくて、胃が動き出すと途端に良くなる。胃を動かすには温めるのがよくて、熱いお茶を飲んだり熱い風呂に入ったりするのがいいです。あとなんか生薬とか、処方されたけど残ってたマグミット錠とかがあるので飲んでる。

睡眠不足、低気圧からの油淋鶏炒飯コンボはやばい、せめて炒飯がなければ。しかし行きつけの店の炒飯は安くて美味い。そういえば先日テレビをみていたらバーミヤンの特集やってて、まず炒飯をつくりますって、なぜかすでに出来てる炒飯をフライパンにあけて卵と炒めていた。そういう仕組みか。昔バーミヤンいったとき、米がないから代わりに炒飯でいいかと言われた経験とも合致する。

こきたない中華料理屋は一定確率で異常に安くて多くて美味い店があるのでやめられない。はやく胃が動いてほしい。

記述は最小の社会である

なんらかの考え事をするとき、頭のなかだけで考えているとどうにもうまくいかない。考えがまとまらず、どうでもいいことに気を取られ、そもそも何について考えていたのかもわからくなり、気づくと眠っている。しかし紙とペンをとって、なんとなく、思いつくまま、汚かろうと読めなかろうと書きながら考えるとすんなりと考えられたりする。

頭の中での考え事は漠然としている。それは事実と印象と感情と論理がごちゃまぜになっているような感じだ。それは言語的であったり、非言語的であったりもする。同じ推敲経路を何度も何度も通り、偏った思考がどんどん強化されてしまったりもよくある。

しばらくそのようなとりとめのない思考をしたあとに、紙に書いてみると、社会性のようなものが発生する感じがある。あった。客観性といってもいいかもしれない、秩序というと言い過ぎな気がする。

書くことのメリットは多分たくさんあって、ひとつは思考の経路を認識できることだろう。これは上記のような堂々巡りを防げる。また、数秒前の自分の思考を読めるということは対話的であるし、対話は社会だ。

もうひとつ、言語化できないものは書くことができないというのもメリットだろう。”なんとなく嫌な感じ” というのを言葉にするには、その原因や、比喩的表現を見つけなければいけない。そして記述してみると案外たいしたことなかったりする。しかし頭のなかで考えていると、そのネガティブな印象に引きずられてトンデモナイ方向に思考がすすんだりするし、最悪死ぬ。曖昧な印象や感情を少なくとも記述において排除できるのは強いと思う。

記述には、それが自分にしか読まれないものであっても社会性がある。言語的で、非感情的で、論理的で、対話的で、もっと言えば非人間的な冷たくて硬い社会性がある。すくなくとも私の頭の中よりはある。エモーショナルで詩的な表現を駆使すれば、記述のなかにも陶酔的で温かみのある世界が広がるのかもしれないが、それはそれで才能と修練が必要だろう。少なくともわたしは稚拙な言葉を積むことしかできない。

感情と陶酔は良くも悪くも気持ちいいが、それはわたしを混乱させ、何もかもなんだかよくわからなくなってしまう。そういうときは記述によって社会性を注入しよう、ここに最小の社会をつくろう。

ところで書くことが言語化不可能なものを排除することならば、非言語的なままでやっていきたいときは記述してはいけないということがわかる。例えば感情であり、強い感情で怒ったりとか、そういうのが該当するだろう。

健康について

風邪をひいた。先週の金曜日だったか、朝目覚めると寒かった、そしてだるかった。まあ1日寝てれば治るっしょと思っていたが、意外と手こずり、結局丸5日寝込んでいた。

経験的に、ガッと熱が一気に上がる風邪は早く治る。今回のは熱も鼻水も咳もなく、ただ異常なだるさが続いていた。体も頭も動かなくて、漫然とした状態で、食うか寝るか漫画をよむかで5日がすぎた。なぜかふと思い立ってクッキークリッカーを初めたが、私が寝込んでいる間も granmda はクッキーを焼き続けてくれていた。iPhone はどこかで電池が切れていた。

生まれつき病弱であるというのはこういう状態がずっと続くのだろうか。それはとてもつらいことだなと思う。カミュの戯曲に「カリギュラ」というのがある。ローマ皇帝の暴君カリギュラについての物語だ。カリギュラは明日死ぬかもしれないということを知りながらのうのうと生きている民衆が我慢ならなかった、つまり「明日死ぬかもしれない」ということを真に知らないことが我慢ならず、さらにそれは不幸であると。カリギュラは彼らを救うために、彼らに死を、不条理をつきつけ、暴君となった。そういう話だ。著者のカミュは若い頃から結核を患っていた。彼の、健康であるものたちの散漫な生への怒り、自分の病気の不条理さ、そういったものがこの「カリギュラ」には込められている、という解釈があり、わたしも同意する。

確かにね、と思った。

ともかく大切なことは、ちゃんと布団をかけて寝ましょうということだ。

映画における鑑賞と批評の距離

今日はララランドを観ていたのだが途中で寝てしまった。レンタルで明日までなのでもう一回ちゃんと観るか迷っている。ラストシーンだけ起きて観たんだけど当たり前だけどわけわかんなかったんだよね。明日の朝作業しつつ観なおすかー。

ところで映画を観た後にツイッターで感想を検索したり、考察や批評を読みたくなってしまう。あるいは友人と一緒だったならばすぐに語りたくなってしまう。

しかしそれはちょっと一旦やめたほうがいいんじゃないかなとわたしは思う。映画を観た後の、感想や感情が定まらず、もやもやとしたあの感じ、あれは心地よくも気持ち悪くもあり、さっさとどこかに着地してしまいたくなる。 その不安感が私を語りへ、つまり作品について語られたものへの欲求となるのかもなと思う。

だれかの感想や批評というのは着地先として安心感がある。もちろん私は、他者の感想を自分のそれに忍ばせよう、拝借しようということは考えてないが、狡猾にそれは行われる。

私は映画によって与えられたは輪郭の不安定な感想以前のものをすこしずつ自分で言葉にしていかなければいけないのだと思う。その作業は実際には何年もかかり、ある時ふと、あの映画のあのシーンはこういうことなのかもな、あのときのひっかかりはこれなのなのかもなと気づくときもある。

だから、映画を観た直後の最も不安定なもやもやを粗末に安直に扱ってはいけない。