健康について

風邪をひいた。先週の金曜日だったか、朝目覚めると寒かった、そしてだるかった。まあ1日寝てれば治るっしょと思っていたが、意外と手こずり、結局丸5日寝込んでいた。

経験的に、ガッと熱が一気に上がる風邪は早く治る。今回のは熱も鼻水も咳もなく、ただ異常なだるさが続いていた。体も頭も動かなくて、漫然とした状態で、食うか寝るか漫画をよむかで5日がすぎた。なぜかふと思い立ってクッキークリッカーを初めたが、私が寝込んでいる間も granmda はクッキーを焼き続けてくれていた。iPhone はどこかで電池が切れていた。

生まれつき病弱であるというのはこういう状態がずっと続くのだろうか。それはとてもつらいことだなと思う。カミュの戯曲に「カリギュラ」というのがある。ローマ皇帝の暴君カリギュラについての物語だ。カリギュラは明日死ぬかもしれないということを知りながらのうのうと生きている民衆が我慢ならなかった、つまり「明日死ぬかもしれない」ということを真に知らないことが我慢ならず、さらにそれは不幸であると。カリギュラは彼らを救うために、彼らに死を、不条理をつきつけ、暴君となった。そういう話だ。著者のカミュは若い頃から結核を患っていた。彼の、健康であるものたちの散漫な生への怒り、自分の病気の不条理さ、そういったものがこの「カリギュラ」には込められている、という解釈があり、わたしも同意する。

確かにね、と思った。

ともかく大切なことは、ちゃんと布団をかけて寝ましょうということだ。

映画における鑑賞と批評の距離

今日はララランドを観ていたのだが途中で寝てしまった。レンタルで明日までなのでもう一回ちゃんと観るか迷っている。ラストシーンだけ起きて観たんだけど当たり前だけどわけわかんなかったんだよね。明日の朝作業しつつ観なおすかー。

ところで映画を観た後にツイッターで感想を検索したり、考察や批評を読みたくなってしまう。あるいは友人と一緒だったならばすぐに語りたくなってしまう。

しかしそれはちょっと一旦やめたほうがいいんじゃないかなとわたしは思う。映画を観た後の、感想や感情が定まらず、もやもやとしたあの感じ、あれは心地よくも気持ち悪くもあり、さっさとどこかに着地してしまいたくなる。 その不安感が私を語りへ、つまり作品について語られたものへの欲求となるのかもなと思う。

だれかの感想や批評というのは着地先として安心感がある。もちろん私は、他者の感想を自分のそれに忍ばせよう、拝借しようということは考えてないが、狡猾にそれは行われる。

私は映画によって与えられたは輪郭の不安定な感想以前のものをすこしずつ自分で言葉にしていかなければいけないのだと思う。その作業は実際には何年もかかり、ある時ふと、あの映画のあのシーンはこういうことなのかもな、あのときのひっかかりはこれなのなのかもなと気づくときもある。

だから、映画を観た直後の最も不安定なもやもやを粗末に安直に扱ってはいけない。

日本が雨季に突入してしまった。雨は気分が滅入るし頭が痛くなるしだるくなる。そういうときに部屋にいると無限にダメになっていってしまうので雨が止んだ隙にカフェに行くとかろうじて人の形を保つことができ、作業ができ、尊厳という感じだ。結果的に昨日も今日も帰り道はぐっしょりになってしまったが後悔はない。

コストパフォーマンスについて

コストパフォーマンスとか最初に言いだしたのは誰なんだ。まるで万能の物差しのようになっているが、実際のところコストパフォーマンスで測れるのは経済活動とかそういう限定されたものだけで、たとえば人生とかについて考え始めると破綻する。

それでもやはりあらゆる物事のコストとパフォーマンスを皮算用している自分がいる。

何事かを始めるということは少なからずそこに全てを可能にする力を夢見ていると思う。仕事や趣味やお金や恋人や、わたしがこれから為すこと手に入れることが、漠然とわたしを一切から救ってくれるような感じを、やはり漠然と感じながら、信じながら何事かを始める気がする。

それについて時間や労力を注ぎ込みながら、ほんとうにこれはわたしを救ってくれるのだろうかと逐一不安になっている。それは狂ったような信仰だが、なんらかのそろばんでコストとパフォーマンスが釣り合わなくなった時に辞めたりダメになったりする。

わたしはわたしの行為を喜捨のように行いたいと思う。人生からなんの見返りも求めなければいいのにとおもうが、実際のところ難しい。

喜捨というのは良いかもしれなくて、実際に喜捨してみればよくて、たとえば寄付とか、贈り物とか。

電子書籍による新しい本との出会い

先日友人に、どうやって読む本を探しているのかと問われた。私は少し考えて、kindleセールで、と答えた。身も蓋もない答えだ。

しかしやはり、本にセールというものが導入されたのは革命であるとおもう。

steam の話をしよう。わたしは steam で200本を超えるゲームを所有している。もちろんほとんどは一度も起動していないし、これからもするつもりはない。なんでこんなことになったのかというと、steam そのものがゲームを買うゲームだからだ。

まず steam にはセールがある。ダウンロード販売には中古がないのでその代わりというかなんというか、頻繁にセールが開かれる。その値引き幅はすごくて、50%OFF なんてザラ、90%OFF もちょくちょくある。また steam store 以外にも steam のゲームを売るサイトがいくつもあり、それらもセールをする。となると、1円でも安く買うぞというゲームになってくる。

さらに pay what you want とう販売方式があり、つまりこちらの言い値で買える。humble bundle が一番有名だろう。これがゲームに厚みをもたらす。値引率すごいけどそろそろ bundle 入りしそうだから買うのやめとくか、とか、買ったら翌日 bundle で売り出されてギャーってなるとか、よくある。

突発イベントとしては値付けミスというのがある。100$ で売るはずだったものを 10$ で売ってしまったり、そうするとSNSなどで一気に情報が広まり、アクセスが殺到し、修正されるまでに注文ができるかという祭りになる。自分はそのゲームをすでに持ってるから腹いせに拡散してやろうという人も現れる。

そうやってやりもしないクソゲーでインベントリがぶくぶくと太っていくのを見るのが楽しい。これがゲームを買うゲームだ。 いやいや、やりもしないクソゲーというのは言い過ぎで、例えば眠れない夜に何気なく起動すると気づいたら朝になっているということがよくある。そういう偶然の出会いもまた楽しい。

その是非はおいといて、値付けの自由というものが購買行動にゲーム性を付加する。

本の話にもどろう。本も電子書籍によってセールというものが導入された。これはセールという新しい出会いの場であって、普段なら読まないけどこの値段なら買ってみるかというのがよくある。 そういう本を暇な電車のなかや、眠れない夜にそっと開いてみると、案外おもしろかったり、新しい世界が開けたりする。 値付けの自由と本棚をすべて持ち歩けるという電子書籍による新しい出会いもなかなか良いと思う。

本について書きたかったのに文量としてはほとんど steam の話になってしまった。いやそれくらい steam のストア設計とエコシステムはすごいんだって、ほかのダウンロード販売プラットフォームが全然追いつけてない。

時間を記録する習慣

数年来、作業時間を記録したいと思っていたのだがやっと今年になって習慣として根付いてきた。このことはちょいちょい言っている気がするがそれくらい嬉しい。

記録する対象について

すべての時間をトラッキングするというのをやっていた頃もあったが無理なので2日くらいでやめた。重要なのは作業をした時間、集中した時間なので、それらを記録するようにした。

ツール

toggl を使っている。これを使う上で最も難しいのはタイマーを止めることだと思う。止め忘れて12時間とか経っているとうんざりした気分になる。次に難しいのはタイマーをかけること。ここらへんは慣れていくしかないし、忘れていたら適当に修正する。適当でいい。

タイマーをかけるというアクションは集中のきっかけというかけじめというかルーチンのようになってくるのでそういう嬉しい副作用もある。

短いタイマー

toggl とは別にタイマーをかけていて、25分やって5分休むというサイクルでやっている。25分たったら、つまりタイマーが鳴ったらすぐに手を止める。5分休んでる間は時間記録を止めない。逆にいうと5分以上休む場合は止める。 この25分タイマーは主にツイッター防止である。あと不意の調べ物防止とか。

作業がだんだん調べ物になり、なんだかよくわからないことになり、別のことを初めてしまい、いつまで作業でいつから遊びなのかわからなくなってしまうということも防げる。

私の場合、だいたい1時間くらい集中すると途端に切れて疲れてしまうのでその前に休憩を強制的に挟めるというのもいい。

toggl と短いタイマーを両方スタートさせなきゃというのはちょっとめんどくさいけど、現状この方法が集中力をいい感じにしつつ時間を記録するのにうまいこといっている。

一日のノルマ

例えば一日2時間勉強しようとかは意外とうまくいかない。この参考書を一日一章ずつやろうとかそういう量で切るほうがうまくいく。というのは時間で切るというのは怠けていれば時間は経つし、あと中途半端なところで終わってしまうのも精神的によくない。

つまり短期的には25分で作業を切って、1日のノルマとしてはここまでやるという量で切る。

プロジェクトの単位

プロジェクトと作業名で管理している。toggl はプロジェクトごとにクライアントを設定できるのでプライベートなものはクライアントを自分にして、仕事は仕事みたいな感じでやっている。

読書の時間はどうするんだというのがあるけど現状は「読書」というプロジェクトをつくって作業名を書名にして記録してる。記録漏れはかなりあるけど気にしないことにした。

まとめ

やはり適当にやっていくのが良い。かっちりやろうとしすぎると続かない。あと適当であることを気にしないというか、神経質にならないようにする。

記録を見て自己嫌悪をしないことも重要であると思う。これしかやってないのかーといちいちがっかりしたり自己批判していると、記録するという行為そのものが嫌になってくる。重要なのは習慣づけるということなのでその点に関しては自分を甘やかしていく。