けものフレンズ感想:無名であり続けられる心地よい世界
けものフレンズが人気ですね。けものフレンズの感想という体で自分の好きな本の話をします。
けものフレンズの本筋のストーリーとしてはカバンちゃんが何者であるかを知るために図書館を目指す旅というものです。この道中でカバンちゃんとサーバルちゃんの友情が描かれています。
視聴者、読み手である我々からすると、カバンちゃんは恐らく人間であるということがわかりますが、劇中の人物はカバンちゃんはなんらかの動物のフレンズであると思っている、というのがギャップとして存在している。なんかここら辺の、読み手と劇中人物の持っている情報の差を利用する物語作りのセオリーみたいなのあるんだろうなあ。
このギャップにより、読み手は違和感と不安を与えられる。それは人間とサーバルキャットの友情への違和感であり、カバンちゃんが人間であると判明した時に二人はどうなるのだろうという不安だ。
私はこの二人の友情に、アリスの名前をなくす森を連想する。アリスは「すべてのものがな名前をなくす森」で一匹の鹿と出会う。もちろん両者は名前をなくしているで、自分も相手も何者だかはわからない。ノンセンスの領域より引用しよう。
さて、アリスが仔鹿と出あうのがこの時点である。「やさしい大きな目をして・・・何というやわらかな声!」をした愛すべき動物である。鹿は彼女に名をきき、アリスも鹿の名をきくが、どちらも自分の名を言えない。二つの影は情を込めてーと言ってもアリス当人にしてみればそうであったかどうか思い出すすべもないわけだがー連れ立って歩き、とうとう森の出口に出てくる。そこで互いに名前と正体を思い出し、あっという間に離れてしまうのである。
「ノンセンスの領域」エリザベス・シューエル P.209
アリスと仔鹿の、無名であることによって成り立っていた友情が、名前を取り戻すことによって失われてしまった。このような結末への不安を、けものフレンズの穏やかな世界に浸りながらも読み手は常に感じている。
引用をもう少し続ける。
名前を失うことがある意味で自由を得ることではないか(中略)言葉の喪失が生けるものたちとの優しい交感をましてくれるのだという思いれもある。仔鹿と子供を引き裂くもの、それは言葉なのだ。
「ノンセンスの領域」エリザベス・シューエル P.210
やさしい交感、これはまさにけものフレンズの魅力だろう。
急に飽きた。まとめると何が言いたかったというと、ノンセンスの領域という本が結構面白かったということです。
her story が面白かった
面白かった! が、どのようなゲームが語るわけにはいかない、前情報一切なしでやってほしいからだ。というわけで関係ないことを書く。
ゲームというのはまあだいたいつまらなくて、しかしたまに体験が直接ぶち込まれるみたいなことが発生し、そういう時はゲームやっててよかったーという気持ちで満たされる。
多くの創作物が受け手に体験を提供することを一つの目的にしているとおもうのだけど、ゲームに関しては純度が高い気がする。わたしはクリエイターの人が頑張ってるマンガが好きなのだけど、例えばG戦場ヘヴンズドアとか、そういうのを読んで感動している自分は部屋で寝っ転がってポテチ食いながらマンガ読んでるだけだという事実がある。これは笑い話のようで案外重要なんじゃないかと思う。
ゲームにおいてはわたしはキャラクターを操作している。部屋で寝っ転がってポテチを食いながら、しかしマリオはわたしが操作していて、その部分が体験を体験たらしめている気がする。
her story や pony island においてはプレイヤーとキャラクターの距離が極めて近い。マリオがジャンプするとかわたしはボタンを押してるだけだが、先の二つのゲームにおいては、わたしの行為とキャラクターの行為はほぼ一致する。
物語を読み、展開し、体験するという手順ではなく、物語を行うというのはやはりゲームにしかできないのではないかと思うというか、それができるものをゲームと呼んでいる気もする。とにかくゲームって良いなあと実感したのでよかった。
本を読むついでに
だいたい電車に乗ってる時は本を読んでるかiPhoneをいじっている。これには結構大きな違いがあって、本を読んでると、本を読むついでに電車に乗ってる気持ちになるけど、iPhoneをいじぅてると電車の暇つぶしにiPhoneをいじってるという気持ちになる。消耗としては後者の方が大きい気がするけど本を読むのも疲れるので結局どうなのだろう。
期待するとダメだった時にとても痛いというのがあり、わたしは人と遊ぶ時は、すっぽかされるかもしれないと思いながら出かける。店に行く時は急な休みかもしれないとおもうし、イベントはクソつまらないかもしれないと思う。最悪なにもかもが最悪であっても、本を読んで写真を撮って帰ってくればいいやという気持ちだ。
とにかく電車で本を読むのはおすすめです。
ギリギリさに気づく
最近ポストを開けてないなと思った。開けてみると郵便物がたくさんと不在届が3枚入っていた。3枚のうち2枚は保管期間が過ぎていた。
つまり一週間以上ポストを確認していなかったということになる。
今年になって気づいたことは私が予想以上に環境の変化に弱いということだ。死んでないのでやっていけてはいるが、こういうところで歪みがでるのかあという発見であった。
毎日やること
毎日やることは良い。
勉強にしても読書にしてもプログラムにしても、毎日やると脳がそのモードを維持する。
昨年末から先週くらいまで、毎日英文法の勉強をしていたのだけど、その期間は脳が英文法のモードを維持していた。この状態は楽しくて、教科書を開くと昨日のつづきからすぐ始められる。
これを一度休むと、脳のモードが途切れてしまって、久しぶりに勉強するかと言う時にモードの呼び出しにとても時間がかかる。つまり一週間くらい英語の勉強をしていない今のことなんだけど。この状態で勉強を続けるのはつらい。
つまりある一定の期間、毎日、ガッとやるのが効率的で楽しい気がする。いくつかのことを断続的にだらだら長くやるのは、モードの切り替えなどでイライラするし非効率な気がする。
漠然とした不安と混乱した思考
今朝、起き抜けに漠然とした不安に捕まってしまい、混乱したまま半日くらい過ごしてしまった。その間は不安が延々に頭の中を回転し続け、同じことを考え続け、同じ絶望的な答えに辿り着き続けていた。
銭湯に行き、落ち着いて冷静になってみるとそんなに大したことではなかった。というか、ともかく工夫してやっていくしかない。
わたしがどれだけ不安になろうとやるべきことはあまり変わらず、問題は依然としてそこにあり、対処していくしかない。なのであまり不安になり過ぎないことが肝要だと思う。
混乱というのもあり、混乱してしまうとともかくうまく考えられない。うまくない考えは同じところを何度も回って筋の悪い着地を繰り返すので本当に体に悪い。混乱したら一刻も早く冷静になるべきだし、肉体的な刺激は良い。布団の中で混乱して布団の中に居続けると何もよくならない。
というのはもう何度も経験していることなんだけどなかなか毎回同じようにダメになってしまう。生きることはとかく難しい。とかく の使い方に自信がない。