aquaSKK と vim でノーマルモードにもどったときに日本語入力を切る
aquaSKK + vim という環境でインサートモードで日本語入力をしていて、ノーマルモードに戻ったとき日本語入力のままだからコマンドが効かない問題。
aquaSKK のほうのキーバインドをいじって、escを押したときに英語入力モードに切りかわるようにしてみた。
・やったこと
/Library/Input Methods/AquaSKK.app/Contents/Resources/keymap.conf
を
~/Library/Application Support/AquaSKK/
にコピーする。
keymap.conf を開いて
SwitchToAscii l → SwitchToAscii l||hex::0x1b
とする。
・参考にしたページ
プログラムとか努力とか
プログラムというもの、なんとなく憧れていてはいたけど特につくりたいものや必要なものもなかったのでちょっとかじってはすぐ飽きるというのを繰替えしていた。
でも最近は、というか働きはじめたらそんなことも言ってられなくて、勉強をしている。ギョウムに直接関係ないところでも、エクセルをただ打ちこむだけのクソみたいな仕事とか、そういうのやりたくないからスクリプトを書いたりする。
プログラムというのは独学要素がすごく強い。他人の書いたコードはもう一目見てまったくわからんという絶望感に襲われる。気をとりなおしてわからんことをひとつひとつググる。独学要素が強いというのは 自分で調べまくって解決しまくれということだとおもう。目の前にわからないことやトラブルがあって、それを調べまくって、ぜんぜん違うこと調べたりとかして、解決すると一歩進めて、進んだ先にまた問題がある。あ、これが努力かもしれないっておもった。
学校の勉強は、なんだか、手をひかれている感じだった。問題は次から次へと降ってくるけれど、答えは先生が知っている。安心感があった。
月並な意見だが、答えのない問題にぶちあたり続けるのは楽しくもありしんどくもある。しんどい。ただベテランの技術者というのはそういうタフネスさをもっているし、問題を解決した瞬間に次の一歩の問題を覚悟しているような節がある。
文章
したおぼえのない約束を破ったと罵しられる、いや罵しられない
人間関係について、ぼくがこわいなあとか不安だなあとおもうことの一つは、「明文化されていない約束やルールを知らずのうちに破って、知らずのうちにぼくの評価が下がっていくこと」です。
マナー、とか、ルール、とか、ぜんぶ書いといてくれればいいのに。メタルギアライジングの無線ネタで、ポジティブリストとネガティブリストみたいな話があった。傭兵が戦闘地域において、やってもいいことリストとやっちゃいけないことリスト、どちらを渡されるのがストレスが大きいか、みたいな話だった。つまり「…以上の施設への攻撃を許可する」と書かれたリストか、「教会を攻撃してはいけない」と書かれたリスト。後者のほうがシンプルでストレスが少ない、前者のリストを渡されてしまうと行動する度にリストと行動を照合しなければいけなくなるのでストレスやばい、みたいな話だった。
だいたいぼくはテーマを決めて書きはじめてそのときに思いだした話をてきとうにはさむんだけどよくよく考えてみるとぜんぜん関係なかったりしますね。
定時に帰らない空気があって、そこで定時に帰るとみんなからの心証がわるくなるんじゃないかとか、そういう、見えないルールに抵触しないように気を付けたり、それにともなって見えないルールを探ったり、そういうのがめんどくさいし、とても不安になる。
そしてその心証が悪くなるっていうのも明言されるわけではなく、誰かの心のなかで勝手に下っていって、あるとき急にぼくの生活に影響を与えたり与えなかったりする。とても不安だ。
めんどくさいのでぜんぶ気にしないようにしようとおもう。
あと、また関係ない話をしますが、このあいだ電車に乗っていたら満員電車のなか障害者手帳を印籠のように掲げモーゼのごとく優先席に座る方がいらして、ああスマートでいいなっておもった。
見た目ではわからない障害を持つ方もいるから優先席には座らないようにしよう、みたいなことを言う人もいるけど、そういうのはけっこう無駄なコストなんじゃないかとおもう、ああやって主張して交渉して座席を有効利用するのはとてもスマートだ。
明日は平日。
本を読むための空間をつくった
引越した先が広いので本を読むための空間をつくった。
ニトリで手頃な椅子と照明を買って、でもイスが取り寄せで昨日やっときたので今日組みたてて、本を読むための空間をつくった。
とてもよい。
そもそも自分の部屋というのは集中できないとずっとおもっていた。ぼくの部屋にはパソコンがあって、ベッドがあって、机があったけど、どこも本を読むのには適していなかったし、勉強をしようと机にむかってもぜんぜん集中できなかった。
集中する、というのはバラバラの藁がぐっと人の形になるようなイメージがある、そういう意味でぼくの部屋でぼくはいつもバラバラなかんじがした。自分の部屋はとても安心できるけれど、そんなかんじであんまり好きじゃない一面もあった。
部屋で集中するのが無理なので、なにか作業する必要があるときは外でやっていた。だいたい本とノートとパソコンがあればなんとかなったので、そのときどきの経済状況にあわせてマックやファミレスをふらふらしていた。これはけっこうたのしかったし、いまでもそうしてる。
大学四年のときは研究室に行きたくなかったので、そして実際にほとんど行ってなかったので研究のほとんどはマックで進めた。マックでできるように家にシミュレーション回すようのサーバーを立てたりしていた。
というのがぼくとぼくの部屋の関係だったのだけど、今回やっといい所に落ち着いた気がする。
ニトリはイケアの商品を真似することでどんどんよくなっている。そしてモノとしてはニトリのほうが丁寧だ。イケアはねじ穴がまがってたり、粗が目立つ。
ちなみに買ったのはニトリのパーソナルチェアというやつで、オットマンつきで7000円を切る。安い。机と良いワーキングチェアを買う、というのも考えたけどあんまりに高くついてしまうし、ワーキングチェアはだらっと本を読むのには向いてない気がする。持ってないからわからないけど。机で作業がしたかったら喫茶店とかマックに行けばいいやとおもう。
自分よりすごい人がいるのは幸せだなあとおもった
そうおもった。
すごいひとって怖い。なるべくなら怖い人には近づきたくないし、すごくない人と一緒にいた方が多分楽。
そもそもすごいとかすごくないとかそういうふうに人を見てるのがあれなかんじするな。
いま僕の周りにはもう全然歯が立たない人がたくさんいて、この人たちは何を見てるんだろうっておもう。そういうひとと仕事をしていると自分が間違ってるんじゃとか、ちょっとしたミスを怒られるんじゃないかとか、ビクビクするし、緊張する。
でも、これってすごい幸せなのかもしれないとおもった。
大学生の頃、ぼくは六年も大学にいたので同期の奴らはみんな卒業するし、それどころか後輩だったはずのひとも卒業するし、研究室は行きたくないし、部活ではなんか長老みたいな扱いされるし、もうなんか完全に、飽きたな大学っておもってた。
理系の大学って、リア充にコンプレックスもったひとがばっかで、たまたまリア充のフリを出来た人がそれ以外の人を馬鹿にするみたいな地獄のようなコミュニケーションが繰り広げられていた。
ひとはすぐに自慢話をしたがる。
僕のことをすごいと思ってくれる人たちの中にいて、どうだすごいだろって、承認を安く買い叩くことは気持ちいい。でもそれは不幸かもしれない。
つまりまとめると、自分よりすごい人がいるのは幸せだなということ。
あ、でもそれは、尊厳を踏みにじり、食い物にしようとする人々の間で耐えることが美徳とかそういうことではない。