圧倒的労働
朝の品川駅は人が多い。改札を出るとアーチがかった太い道が左右にのびており、人が流れている。立ち止まっているひとはほとんどいない。わたしは歩くのが遅いので、わたしの左右を人がすり抜けていく。港南口を出ると、流れは綺麗に何本かに別れ、一部はビルや階段に吸い込まれ、他はまた歩道を流れ続ける。
このたくさんの人間は仕事をするためにやってきている。このたくさんの人間の一人々々に仕事がある。その膨大な仕事の総量を考えると目眩がする。今日だけではない。明日も明後日もずーっと仕事がある。膨大な人間が膨大な仕事にとりかかり、それでも終わらないくらい仕事がある。
わたし一人の問題として考えてみれば、わたしは日々の糧を得られるだけ労働に従事すればよい、それはそれで絶望的だが、捉えることができる労働だ、かろうじて闘うことができる労働だ。しかし品川駅港南口のこの流れとうねり、これもまた労働が形作るものであり、こちらは圧倒的だ。圧倒的労働、地獄のように感じる。不安。
つい、素朴な社会について思いを馳せてしまう。こんなふうにならない未来もあったのではないか、もっと素朴でシンプルで牧歌的な社会、進歩を拒絶し、人間が人間らしく営むだけでよい社会、曖昧で都合のいいイメージを考えてしまう。
いったいどこからこんなにも仕事が湧いてくるのだろう。彼らが、というか私たちが行う仕事は、ざっくりといって社会をつくっている。ケータイが繋がったり、電車が走ったり、Amazonからゲームが届いたりする。膨大な人と膨大な仕事により今日も社会が作られ、支えられ、持続している。
わたしがさっき直感で思った救い、素朴な社会というのも可能性としてはあっただろう。しかしわたしたちは社会をつくらねば生きられず、発展しなければ生き残れなかったのだろうし、結局これしかなかったのかもしれない。
ともあれ、わたしが最初に感じたどうしようもない絶望と不安はかなり弱まった。わたしには彼らの歩みが無への行進のように感じられたが、そうではないと勝手に自分で納得したからだ。
やっていること
無職なのでなにもしていない、というわけでもなく一日1〜3時間くらい作業をしている。
なにをやっているかというとコードを書いている事が多い。プログラムというのは手軽で、とりあえずパソコンを開けば書き始められるし、コンパイルするかテスト回すかすれば結果が返ってくる。毎日書いているので作業の取り掛かりへの心理的障壁も下がってきている。すごい。
秋の文フリを申込んだので、書かねばいけないのだが、こちらはとにかく本を読んで付箋を張って気になったことをカードに書き出すという作業なので、紙とペンと本と机が必要で、めんどくさくて後回しになってしまう。
パソコンはパソコン単体で作業が完結するという点においてやはり素晴らしい。しかし文章を書くという行為で、パソコンを使うのは比較的終盤で、そこまでは紙とペンでうんたらかんたらやることが多い。プログラムにおいてはテストというもので挙動を定義できるのも良い、あれは頭がスッキリするし、安心感がある。コードを書くように文章がかければいいのに。
あと自己嫌悪についての話。なにもしないで一日が過ぎてしまうと寝る前とかにものすごい自己嫌悪に襲われて健康にわるいことが知られている。 かといって作業してみるもそんなに集中力が続かなくて、進捗もでなくて、えっこれだけかよ…ってなってやっぱり自己嫌悪するので、まあまあで自分を許してあげることが大切なのだとおもう。
他者の語りを聞く事とそこから得られるもの(などない)
しくじり先生というテレビ番組がやっていて、作業がてらに流していたのだが、実に不快だった。
物語というもの、とくに人間が自分の経験を筋道立てて語るという行為に不快感というか、疑いというか、ネガティブなものを感じる。語ることは楽しいし、コミュニケーションであるし、いわばゲームなので、例えば酒をのみながら適当に交互に語るというのは私も楽しむが、シラフで滔々と語られるのはつらくなるものがある。
事実は捏造できないし、検証可能だが、事実を恣意的に配置することはできるし、語りはいくらでも騙れる(うまい)。事実を並べてその間と裏側を語り、今の自分の接続するという行為は自己満足でしかない。そのようなものを聞いても、いままさにつらい私には何の役にも立たない。わたしにできることといえば語り手が気持ちよく語り終わることをサポートするくらいだ。
そのような語りから無理にでも何かを得ようとするならば、いずれ私も語ることが可能であるという欺瞞だけだろう。わたしも今のつらさをどうにか乗り越え、生き延び、そして一角の人物になれば、あのように語ることができる。そのときわたしの今までのつらさはすべて昇華し、わたし自身の根拠となるだろう。そのような救いの可能性を、欺瞞の救いをみることができる。
実際のところそれが求められているものなのだろう、わたし達はいずれ気持ちよく語れるというよくわからないご褒美を待っている。そこに到達できたものは存分に語り、そのために経験を溜め込む。そこに到達できないことを、あるいはそのときに何も語れないことを恐れる。 そんな日曜日の深夜でした。
生活
晴れて無職になりました。つい最近、転職を祝ってもらった気がしますが、その節は皆様ありがとうございました。なんとなくバツが悪い感じがしますね。
今何をしているかというと生活をしています。あとハイラルを救ったりしています。
ゼルダすげーおもしろくて、そうだよこれが俺たちがやりたかったオープンワールドだよ!って感じです。
学校を卒業して、働きはじめたとき、会社の同期が、「これから40年ここで働くのかあ」と言ったのが印象的で、そういう感覚はわたしにはなかった。というのを今突然思い出した。悪く言えば、その同期の圧倒的な能天気さには呆れる。まあどうでもいいのだけれど。
あ、あと植物を育てたりしている。バジルと大葉。ハーブは実がならなくても楽しめるので良いです。バジルは1日でも水をやるのを忘れると死にそうになり、大葉はたくましく育っている。大葉はスーパーで売っているのの2倍くらいの大きさになってしまったが、食べてみたらちゃんと大葉の味がした。
生活です。
きっと後悔するぞという人よ
小学生の時、先生に何かでこっぴどく怒られて、でもそのすぐ後に友達と楽しく話してたら、先生から、「さっき怒られたばかりなのに反省の色がない」的なことを言われた。
転職のときに、上司から、「きっとお前は後悔するぞ」と言われた。
他者からして、わたしに求めているものや期待しているものは反省や後悔だ。しかし私にとって私に最も重要な事は生きることだ。
なるほど私は生きている限り無数の後悔をするだろう、そしてまた生きるだろう。なので後悔するぞという忠告は無意味だ。
他者にとっての私はある感情や態度を示すことを期待される。悪いことをすれば罪悪感、謝罪、反省といったものを、忠告を無視すれば後悔などを期待される。円滑なコミュニケーションや角を立てないというのは求められている概念を把握して上手に表出する能力だ。
問題なのは、他者からの要求であるはずの罪悪感が、自己からの要求にすり替わってしまうことなんだよな。
社会性として、コミュニケーションとして罪悪感を表出していたのに、いつの間にか自己が自己にそれを要求しているようになり、罪悪感そのものにならなければというような強迫性が生まれる。これがつらい。
感情の表出は社会性であり、内奥は下衆でしたたかに保とうと思う。
職チャレンジ
准無職です。
いろいろと不確定で曖昧な立ち位置なので詳しくは書けないのですが今日は職ゲットチャレンジして失敗しました。世間は厳しい。
明日は明日でチャレンジがあります。頑張っていこう。