語り得ぬもの

なにがしかを語るとき、常に語るべきこととそうでないことを峻別している。この人にはことのことを語れて、このことは語れない、というようなことを考えながら語っている。インターネットは特にそうで、インターネット特有の匿名感に浮かれて何もかも語り破滅した例は枚挙にいとまがない。慎重になるべきなのだ。

私は親しい友人にも私的なことを不必要に隠す癖がある。

何もかも語れる人、というのは存在しない。あるいはそれは自分自身なのかもしれない。かつて自分だけが見るノートのはじめのページに、このノートはわたししか見ないので何もかも包み隠さず書く、というような文言を書いたことがある。これは逆説的に、自分にもまた語るべきことと語るべきではないことがあるということだ。

実際、自己を偽って生きるというのは珍しいことではない。自分自身が、最大の批判者であるということはままある。私自身に隠すべきこと、認識すべきではないこと。

だから、結局いつでも語るべきことと語らぬべきことについて考えていて、それはとてもストレスだ。

何もかも語るということが、そもそも人間の能力として無理という側面もある。ほとんど全ての思考を言語で行なっているから、認識と言語がかなり一体化していて、認識したことを全て語れてしまうような錯覚をしてしまうが、そんなことは無理だ。

何もかもすっかり語り尽くせたらどれほど気持ち良いものなのだろうと思う。